信じる者は救われる?→信じる者ほど奪われる。しんじる より しんじつ を見極めよう

 

信じる者は救われ……ません。

 

“掬”われるねん、足元を。

 

”信じる”って行為自体が、ズルい人間が考えた都合の良いビジネスやからね。

 

 

そんなことで、一時の喜びや楽しさを得られても、心が安定した幸せな人生は送れない。

 

外的要因に振り回されて心がいつも乱れてる日々こそ、地獄なんですよ。

 

天国とか地獄って、場所じゃなくて、心の状態やから。

 

だから、不確かな何かを信じても不確かな心のまま。

 

ではでは、心を安定させて幸福感で満たす方法を説明しよー。

 

 

結論から言うと、信じるもクソも、この世には”真実”しかないねん。

 

 

 

 

 

信じるものほど奪われる

 

 

 

「信じる=不確かなことを”確か”だと思い込むこと」で、

 

「真実=誰がどう言おうが思おうが絶対揺るがないこと」やねん。

 

 

 

んで、他者依存的に、他力本願的に、目に見えない存在するかもわからない何かを信じるより、圧倒的に、

 

確かに存在する真実をしっかりと直視する

 

ということの方が圧倒的に大切。

 

なんのために大切か。

 

個人と人類、両方の平和・幸せ・安穏・発展・成長、全てにおいて。

 

 

具体的には、信じると言うと思い浮かぶのは神様仏様とか、奇跡とか、超能力や、霊とかやんな。

 

んなもんは存在するかしないかわからない。

 

不確か過ぎる。

 

目にも見えないし触れられないし、確認のしようがない。

 

だからこそ信じさせる側はなんとでも言えるし、人の高揚感や期待を煽りまくれる。

 

そして不安を煽って、信じさせることでその不安から解消されるという自作自演で搾取する。

 

人生も、体力も、精神力も、金も、時間も、全てを吸い付くされる。

 

 

墓ビジネスも、葬式ビジネスも、スピリチュアルビジネスも、神社仏閣・お祓いビジネスも。

 

本当に人を苦悩や不幸から救い出したいなら、人から搾取するっておかしいからさ。

 

だってこの国には生存権があるんやから、悩める人らを騙して搾取なんてしなくてもちゃんと生きていけるわけやし。

 

結局、聖職者と言えども、他人の人生や命なんかより自分の懐を潤したいってだけの強欲の化身ってことやで。

 

 

 

 

 

 

しんじる より しんじつ

 

 

この世は”因果の理法”って言って、全て100%、原因と結果によって成り立ってる。

 

よく、「原因不明の難病」なんて言葉を聞くけど、原因が”不明”なだけで、無いとは一言も言ってないやん?

 

だから、原因は必ず何にでもある。

 

病にも、障害にも、悩みにも、不幸にも、絶望にも、それらに起因する社会問題も、個人の抱える問題も、全てに明確な原因が必ずある。

 

逆に、幸福感、充実感、自己肯定感、成功、目的達成、夢の実現、これら全てにも明確な原因が必ずある。必ずね。

 

僕が必ずって言うときは、99.9%じゃなくて、100%。

 

誰にでも漏れなく当てはまるし、どんなことにでも当てはまる。

 

だってこの世で存在してて起こってること全てに共通してることやから。

 

 

つまり、それが真実で、その真実をしっかりと自分の目で、手で、耳で、鼻で、体で、しっかり直視しようってこと。

 

 

それしか、根本的に救われる可能性はないよってこと。

 

しんじる より しんじつ ですよ。

 

 

 

 

 

不幸や苦悩の原因はたった1つ

 

 

 

こと人間社会で生じる全ての問題の根本原因は、

 

「産まれた直後からの環境によって個人の自己肯定感が剥奪されて、差異に執着すること」

 

やねん。

 

これを、あなた自身が理解して、直視して、洗脳や呪縛から自分を解放してあげるのが、唯一絶対の「救われる方法」やねん。

 

 

「自分は(○○ができないと)価値がない」っていう最悪な価値観を、知らず知らずのうちに環境や社会に刷り込まれまくって、真実を見失ってる。

 

だから、イヤな学校や仕事も、いじめられようがしんどかろうが、這ってでも行こうとするやん?

 

どんだけ虐待を受けてても、どんだけDVを受けてても、自分に価値がないと思ってるから、仕方ないと思っちゃうやん?

 

あきらめちゃってる。

 

許しちゃってる。

 

あとは、病気の自分に価値がないと思うから、健康な人と一緒になろうと必死でもがいて、人生を消費して、ムリしまくるとか。

 

 

それ、すでに心が病んでるからね。

 

完全に洗脳されてるから。

 

 

”苦しい”の果てには、100%、死が待ってる。

 

個人のその”苦しみによる死”を肯定して受け入れてしまったら、人類が滅亡してもいいっていう考え方を肯定してるのと同義。

 

だってみんな人間やねんから。

 

すでに存在してるものの存在を否定するなんて、矛盾にも程がある。

 

矛盾こそ悩みの元。

 

間違ってるんですよ、人を苦しめることなんて。

 

それが他者から自分であっても、自分から他者であっても、自分から自分であっても。

 

 

 

 

 

 

命は意識と無関係

 

 

人間に限らず、生き物ってのは意識の有る・無いに関わらず、何があっても寿命までは全力で生きようとするねん。

 

24h365d、僕たちの理解が及ばない多様な生体機能が、絶妙なバランスを保って、謎の動力と仕組みで働き続けてる。

 

これが真実やから、”逃れられるはずの苦しさを耐え続ける”っていうのは、もはやこの時点で病んでるねん。

 

せっかくいつでも頑張ってくれてる自分の体や命を否定してるし、自分の苦しい、逃げたいっていう自然現象の気持ちすら否定してるし、全ての存在を否定してるのと同じなんやって。

 

否定してるけど、現実はずっと続いて全部存在し続けてるから、矛盾が生じてしんどい。

 

人の苦悩や不安って、矛盾によって生じるからね。

 

 

 

 

「絶対価値」とは

 

 

だから、そういう人は、相対価値と絶対価値について知ればいい。

 

この世に存在する全ての存在には”絶対価値”ってのがある。

 

僕らが、価値が低いとか高いとか普段から言ってるのは”相対価値”のことで、それは人のモノサシや状況や時代とかによって無限に変化し得る、とても不確かで曖昧で頼りない価値。

 

片や、絶対価値ってのは、存在そのもの。

 

存在=価値ってこと。

 

揺るぎないよ。

 

だって、知覚できる全ての存在が価値やねんもん。

 

肉体、命、物、自然の景色や星から始まって、人の振る舞い、心、感情、過去、現在、時間、夢……etc。

 

思いつく限りの全ての”知覚できること”は、存在してるってことやから、それが即・絶対価値。

 

端的に言うと、存在してるってことがどれだけ希少で、どれだけ尊大で、どれだけ奇跡的かってこと。

 

そしてそれが実際に起こってる真実で、必然やから、余計にすごいこと。

 

 

国民的アイドルグループの曲で「もともと特別なオンリーワン」って歌詞があるけど、まさに槇原敬之さんはそれを仰ってる。

 

 

 

 

 

幸せは自分の中に無限にある

 

 

何を信じようが、何を信じまいが、どれだけ賢かろうが、どれだけ裕福だろうが、どれだけ健康だろうが、どれだけ人や環境に恵まれてようが、運が良かろうが、この”絶対価値”を直視して、気付いて、ちゃんと理解できてる人間の人生の幸福度には絶対に誰も勝てない。

 

 

だってそうやん。

 

過去のいろんな偉人たちも自殺してるし、お金持ちでも自殺してるし、健康でも自殺してるし、素晴らしい人に囲まれてても自殺するし、地位や名誉があっても自殺する。

 

幸福ってのは「自分の中」にしかなくて、「自分で気付いた人」にしかない。

 

決して外から与えられる喜びや豊かさでは揺るぎない幸福感は得られないねん。

 

 

不確かな何かを信じるより、どこまでも確かな真実を見ようと意識する。

 

ここに、確かな幸せが約束されてる。

 

 

最後に、誰の名言か忘れたけど僕が20歳くらいの時に一番納得した名言を。

 

 

 

”幸せとは、思考・行動・言動が一致している時の精神状態のことである。”

 

 

 

 

またでbye。

 

 

 

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