どちらの意見もよく聞く。いじめた or いじめられた経験があろうがなかろうが、関係なく、どっちの意見の人も存在する。
でも、事実としてここでハッキリ断言したいのは、「原因」という言葉を使うには教養が必要だよってこと。
明確で矛盾のない意味をちゃんと説明できないのなら、曖昧な判断で「原因」という言葉を使うのは勉強不足だよってこと。恐らく「原因」という言葉を使う人らの多くが本当に言いたいのは「きっかけ(動機)」やと思うねん。その齟齬があるから平行線になる。
いじめられる側にあるのは「きっかけ」と「選択責任」
結論から言うと、いじめられる側にあるのは「きっかけ」と「選択責任」。原因じゃない。
いじめの原因は、あるきっかけに対して「いじめよう」という意思決定をした人間の心にある。
もう少し遡れば、原因は社会の教育システムにある。
もっと遡れば、原因は民衆一人ひとりの心の貧しさにある。
いじめる側の動機作りのためのきっかけ探し
いじめのきっかけは大抵、なんだか周り(大多数)と違うやつが居て、そいつを排他しようとする動きによって決められる。しかもその「周りと違う」という部分を、ムリヤリでっちあげたり見つけたりする場合もある。多数決だったり、腕力や支配のヒエラルキーとして一番下の人間だったりもする。
一番怖いのは、多数決。
いじめる動機を探すためにみんなできっかけを探すから、根拠が乏しくても案は通るし、赤信号はみんなで渡れば怖くないからね。怖いかどうかや危ないかどうかなんて、正しいとか間違ってるには関係ないんだけど、いじめる原因(心)があれば、なんでもきっかけになる。魔女狩り。
動機と原因の違い
法的に考えて「いじめ=犯罪」とすると、一般的に言われてる「原因」は、往々にして原因じゃなくて「動機」であることが多い。だってどんな善行も悪行も原因は本人の心だから。刑事裁判でも過失か故意かは最重要の争点で、情状酌量の要素になる。
その心(原因)に対するきっかけがあり、心がきっかけ(動機)として決定した瞬間に、それが行動化(具体化)される。
いじめの動機は実はなんでもいい
よく、いじめた理由として、
「あいつが○○だったからいじめた」
とか言うセリフがあるやんな。これが動機ね。○○の中は、まさになんでもあり。
- 気持ち悪い
- 目つきが悪い
- 病気でヒョロい
- デブ、ガリ、チビ
- ブサイク
- 目立つ
- 調子に乗ってる
- 気が弱そう
- 貧乏
動機は本当になんでもあり。でも、たとえどんな動機であったとしても、それはいじめる側の「責任転嫁」でしかないねん。
動機=いじめる側の責任転嫁
いじめる動機って、たとえどんなものであれ、いじめたい側のただの「責任転嫁」やねん。
なんかムカついたからいじめた
とかいう、完全に自己中な動機もあるけど。ここで重要なのは、一見するとまともそうな動機もあるということ。
たとえば、
- 陰口を言われたからいじめた
- いたずらされたからいじめた
- ウソをつかれたからいじめた
- 悪い噂を広められたからいじめた
などなど。
人によっては、
と判断してしまいそうな動機。
でもちょっと待ち。
いじめられる側にどんな特徴や行いがあったとしても、それらを動機にしていじめる人間も居れば、いじめない人間も居るわけやん。
ということは、原因どころか動機すら、周囲の人間の心で勝手に決定されてること。
そもそもいじめたいとかっていう悪意や敵意や、劣等感から来る攻撃性があるのは、いじめたい人間自身の問題。家庭環境やその他の人間関係や体調、経済面など、いろんな原因があるだろうけど、その本人の攻撃性が生じる原因に対処しないままで弱者に八つ当たりをするという性根腐った「責任転嫁」で、いじめに及んでるねん。
だから、何をどう言おうが、いじめの原因は100%いじめる側にあって、100%悪いねん。
じゃあ、いじめられる側にはなんの落ち度もないのかというと、そうじゃなくて。
ここからは「人生の選択責任論」の話になる。
自己責任論より選択責任論
よく、どんな悲惨な被害に遭った人に対しても、
みたいなことを言う人もいる。
何を隠そう、僕も昔はこのタイプやった。自分が生きてる以上、どんなトラブルに見舞われてもそりゃ自己責任やわ、みたいな。でも、実はこの自己責任って言葉は語弊があって、自分が原因とか悪いみたいに捉えられがちやねんな。
ひどいと、システム正当化バイアスで、本当は自分が悪くないことでも無意味に自分を責めるという愚行に及んでしまうようになる。
そこで代わりに重要なのが、選択責任論。……なんぞそれは?って話なんやけど、このいじめの話で説明すると、いじめられる側が自己防衛できる可能性はあるよってことやねん。
いじめられる側には自己防衛を選択する権利がある
いじめを根本的になくすってのは、人間が人間である以上まず不可能。だからこそなるべくいじめられがちな側が「対処する」という自己防衛を選択する必要があるねん。その選択を「しない」という選択をした場合の責任は、いじめられた側にあるよという話。
自己防衛を徹底した方がいい理由
しないと一生後悔するから。
自己防衛の必要性と重要性
一生後悔するのを避けるためにも、自己防衛は必要だし、とても重要。
現実的に考えた時に「いじめられた」という事実があると、後々、克服するために深堀りしなきゃいけない。トラウマができたり、対人恐怖症になるだけなら、まだいい。いやよくはないけどさ。
人間って、つらいとかしんどいの最果てには100%の「死」が待ってる。
その負荷の許容量に個体差があるだけであって、ゴールはみんな共通してる。
死というものから逃れたい欲求は、正確に言えばつらさやしんどさや苦しさから逃れたいということ。
悲しかな人間は脳が発達しすぎて、死ぬことの方がラクだと思うくらいのそれらを、生きてる中で感じてしまえる生き物。いじめもその理由に十分なり得る。
だからめちゃくちゃ現実的に考えて、いじめを回避することはできないのかが最終的な争点のはずやねん。この争点で行くと、いじめられる側にも、取れる手段ってものを考えればそれなりに出てくるやん?
たとえば、
- 容姿をいじめの動機にされたら見た目を変える
- 性格をいじめの動機にされたら言動行動を見直したり友達を増やす
- 動機が不明ないじめなら転校するとか登校拒否、仕事なら転職
…etc
あとは、徹底的に証拠を集めた上でいじめる奴をボコボコにするとか。取れる手段は、たぶん子どもでも考えたら思いつくはずやねん。
いじめられないように自己防衛対策しないという手段を選択した責任は、本人にあるということ。
やり返さないのは優しさではなく自己愛の不足
要は自尊心がないから、やり返すのが怖いとか、申し訳ないとか、その状況から脱する意欲がない or 失われるねん。
それを優しさと言う人も居るけど、ただ単に自分を大切にせず、自分を愛せてないだけ。
自分を愛せない人間は、原理として人も愛せない。
反撃や回避といった対策を取らないということは、自分をいじめる人間の味方を自分でしてるのと完全に同じだから。そういう人間に育ってしまうのは、教育が原因なんだけどさ。
家庭でそういう教育しかできないのは、親もその親から同じような教育しかされなかったからやねんけど。その原因が何かっていうと国の教育の構造や社会風潮や主義にあるわけやねんけど、今回は割愛する。
沈黙の生者は死者の如し
暴力や人権侵害に対して、無対策でやり過ごそうとする人は多い。
嵐が過ぎ去るまでじっとしてよう……みたいな一見利口そうに見えるけど、違う。
なんも対抗手段や防衛手段も取らずにただ耐え忍ぶのは、屈服して従属してるだけ。
「いじめる」という選択をするような人間からすると、そういう黙って攻撃を受けるような人間ほどいたぶりたくなってエスカレートしてく。
大きな嵐が来てもなんも対策せず怯えてたら、家の窓割れたり屋根吹っ飛んだりするやん。
災害時用の非常食やグッズを用意してなかったら、もし冠水して避難しなきゃいけなくなった時に大変やん。
それと同じで、何もしないという選択をする責任だけは、完全にいじめられる側にある。これが選択責任論。
まとめ
いじめの「原因と動機」はいじめる側の心や環境に100%あるけど、闘争と逃走どちらも放棄して耐える「選択責任」は、いじめられる側にある。
ただその原因は家庭環境にあり、教育にあり、国家にあり、民衆にあり、社会全体にある。