「自分」って何?→意識のこと。寝てる時、あなたはどこに居る?

心の道しるべ

「自分自身って、何?」

って聞くと、大体の人は鏡で見る自分や、写真やビデオに映った自分を想像したり、社会における自分の役割とか人間関係の立ち位置とか考えると思うんだけど、それってどれも自分の本体じゃないからね。

いつも僕がブログでもよく言ってる、自分で自分を愛せってのは、別に物体としての自分を愛せとか、社会における自分を愛せとか、境遇における苦痛や苦難を愛せとか、欲しいもの全部手に入れろとか、そんな意味で言ってるんじゃないねんけど、読み手にはなかなか伝わらんかなぁ。

「自分=意識の存在」を愛せって意味で言ってる。

これまで、病気やらケガやら自殺未遂やらで生死の境目を見て悟ったことやけど、人間の本体って、命とか体じゃなくて、意識(心)なんやって。

意識こそが自分なんやって。

体も命も、自分の本体じゃないねん。

意識=自分が存在する不思議というか、奇跡というか。

目に見えないのに確かに意識ってあるやん。

その事実にしっかり目を向けてくれってことやねん。

MRIみたいに脳を薄く輪切りにしても、頭ん中で想像したことや考えたこと、言葉、感情、映像、音、文章って、どこにも見当たらんやろ。

でも、確実にあるやん?

確かに意識は存在してて、自分の頭ん中って無限に色んなもんがあるし、日々、無限に湧いてくるやん。

心って100%無限の自由で、どんなこと考えたって誰にも邪魔され得ない、否定され得ない、時空間にすら囚われない世界やん。

たとえ手足がなかろうが、見た目がグロテスクだろうが、みすぼらしかろうが貧乏だろうが病気だろうが、障害があろうが、その本体の自由は平等やん。

僕が脳みそだけになったとして、痛覚とかうまいことして栄養や血液や電気の微弱信号とかもうまいことして、脳だけで生命活動を続けられたとしたら、僕自身は変わらず確かにそこに居るわけやん。

人から見りゃ、ただのキモい脳みそやろけど、僕の意識は何も変わらず僕なわけやん。

僕が僕として存在してるわけやん、そういう状態でも。

逆に、五体満足で健康で、裕福で、人に恵まれていても、自分が寝てる時や意識を失ってる時はそんなんわからんわけやん。

心がなければ、他のどんな物が揃ってても手中に収めてても、自分にとって自分は存在しないのと一緒やねん。

それって人類に限らず、全ての生き物に共通してることやから。

次から、自分=意識=心のすんばらしさについて話すよ。

心という世界のサイズ

当然、意識の世界の広さってのは、知見であったり人生の中で五感で得た情報だったりの総量で、人それぞれ変わるよ。

でも、変わるからって、一方的に増えるって意味じゃない。

小さい子どもの方が想像力や発想力、記憶力がいいことを考えると、成長に伴って増える経験や知識ってのは、偏りを生み出したり自分の世界を狭めたりするから。

だから、人生経験が浅いとかってのも大して関係がないのよ。

逆に、余計なフィルターがないほうが、心の世界は広い。

そして、何度も言うけど、その心そのものが自分の本体であって、肉体や命は自分ではないよ。

だから「自分ではないものに囚われる人生」は、即ち「全て虚像」ですよ、って。

物理的な差異への執着、ってやつね。

優先順位がバグってる。

自分の本体に目を向けないから、何が幸せかもわからなくなって、何を得ても満たされなくなる。

あなたの思うあなたは本当にあなたか?

大体の人は、自分の認識や欲求の根本を自覚できてない。

本当の望みをわかってない。気付いてない。考えてない。

単純なとこで例を出すと、お金が欲しい人。

お金は手段やから、目的が別にあるやんな。

何か買いたい、サービスを受けたい、人にあげたい、中には……寄付したい、子孫に遺産として遺したいとかもあるかも。

じゃあそれらの目的の目的は何?

目的ってのは、生きてる間はずっと大小の節目でしかなくて、言い換えればその節目って、また他の目的までの経過や達成の手段やねん。

物欲を満たす、食欲を満たす、性欲を満たす、征服欲、承認欲、所有欲などなど、欲を満たすために金が欲しいわけやろ。

その欲の量って、人によってまちまちやん?

なんでかって、全部が「愛情の欠乏」から来る欲やから。

愛情と欲は反比例してる。

病気や障害の人の「健康になりたい」もそう。

生きるのがつらくて「死にたい」って人もそう。

あとは、恋愛や仕事や趣味に関するいろんな経験とか、あとはスキルとか、時間とか、くらいかな。

要は「○○な自分」という理想像を作り上げて、それだけを正解として、それ以外は全部不正解としてしまう、とか。

もっとひどいケースになると、理想像すらまったく明確ではないのに、

今の自分じゃダメ

なんて、根拠も証明できないまま決め付けて思い込んで泥沼にハマったりする。

でもぜーーーーんぶひっくるめて、その欲の根源って「圧倒的な愛情不足」やねん。

だって本体は心やから、肉体がどうであれ、着飾ったりステータスがどうであれ、「存在そのものの価値」にはまっ………っったくなんの関係もないわけよ。

その証拠に、ガンでも笑って楽しく生きる人も居るし、ホームレスでも楽しく生きてる人居るし、逆にお金持ちでも健康でも自殺する人はたくさん居るやん。

その差は何かって、いろんな存在そのものの価値や奇跡に気付いてるかどうかやん。

だから、自分の本体、本心、本音、実像を愛せよって言ってる。

愛情不足つっても、誰からのとかじゃなくて、自分ですら自分の本体に目を向けてないと愛せないわけやから。

時間ないで。

長生きしても人生80年として25億秒やで。

そのうち7割以上は学業や仕事と睡眠、食事などで消えるで。

つまり厳密には人生って8憶秒ないくらいやで。

20歳超えたらもう6億秒を切ってるんやで。

そして1秒は1億円払っても返ってこないんやで。

自分の本体を蔑ろにして、ほったらかしにする虚像の人生なんて、1秒でも早く無くさないと。

平等且つ唯一のものとして与えられた「自分という存在の自由」は、他人どころか自分にも脅かす権利なんてないやん。

否定したり可能性を狭めようとする必要性もない。

だって真実なんやし。

根本的に、この世に存在するものは生き物であれなんであれ「存在全てを前に進めようとする力と動きがある」ねん。

時間然り。

だから、それぞれが己の存在をまるっと肯定・認識できていれば、ルールや強制や義務なんかなくても、他の同種の個体を攻撃したり殺したり否定することもなくなるねん。

否定以外に否定できることはこの世にない

僕が「価値の否定が破滅の始まり」っていつも言うのは、どんだけ小さな否定も、因果から見れば「嘘」やから。

厳密には、破壊的否定と生産的否定があって、嘘ってのは前者のことなんやけど。

この世に「異常」とか「否定できる対象」なんてものはないんですよ。

だって全てに因果があるから。

この世で起こってることや存在するものは全て「正常・必然・肯定」やねん。

つまり、否定要素がこの世には何も存在しないのに、肯定や真実を否定するから、歯車が乱れる。亀裂や矛盾が生じる。苦悩が生じる。

んー……これも因果やから必然やねんけどな。

心(本体)の器は体で、両方の器が命

とにもかくにも、その全ての大元として命(=宇宙や星とか自然とか生き物とか全ての仕組み)があるねん。

口酸っぱく言うけど、命は自分自身じゃないからね。

「自分の命を大切に」なんて表現するけど、あれ嘘やから。逆やから。

「命の中の自分」やねん。

生き物は全て「命」っていう仕組みの上に成り立ってるねん。

その「命」こそがマスターで、僕らの本体も肉体も、みんなみーーんなその一部。

つまり、命=全て、ってこと。

誰の…とか、なんの…とか、そういう所有的でおこがましいショボい小さい概念じゃなくて。

絵を描く時のキャンバスみたいなもんで。

「この世」がないと何も存在し得ないわけなんですよ。

だから、自分自身の本体である心を大切にするためには、体も大切にして、んでそのどちらもが属する大元の命も大切にする、というごくごく当然の話。

もちろん、自分以外の人のそれらも等価値やから、同じように大切にするべきなんだけど、まずは自分ができてないと難しいから、自分を優先。

それに、自尊心を無くした人にそれを取り戻させるのは、人生懸けて挑まないといけないくらい大変なことやから、一にも二にも自分優先でよろしっ。

まずはあなたが自分の全てを愛でることから始まるねん。

「愛する」のハードルを上げすぎるな

まず自分で自分を愛そうよ───と再三言ってるけど、

愛する って、なんかすげぇ大層で難しいことのように思われがちやん。

僕も、愛は幻想で価値がむちゃくちゃ高くて、自分にも人にもそんな価値を提供するとか、逆に人にそれを望むなんて不可能やわって考えてた。

絶対に何か犠牲が伴ってしまうことやと。

でも、そういう考えや思い込みこそが失敗の原因やってん。

実はめちゃくちゃ単純で簡単やねん。

愛するって言葉を辞書で引くと、

「価値あるものを大切にすること」

なんて書いてある。

この世で価値のないものって、そもそも「存在しないもの」だけやから、存在してる時点で価値やねん。

相対価値と絶対価値ね。

相対価値は知性で見出すもので、絶対価値は存在そのもののことね。

だから、まずその「あるしかない価値」を、大切にしようってことやん?

そしたら次は、大切ってどういうことやろーってなるやん。

大体の辞書では、

「丁寧に扱うこと」

なんて書いてあるね。

じゃあ、切実に死にたい人を殺してあげたら大切にしたことになる?

危険に遭わせたくないからって過保護や監禁すれば大切にしてることになる?

違うよね。

違うのはわかるけど、うまく説明できないな~

って人は、諦めずによく考えてみてほしい。

そして初めから言ってることを何度も反芻してほしい。

「存在そのもの」が価値なんですよ。

てことはやな、価値を丁寧に扱うってことは、存在を存在させ続けるってことやで。

んで、その人の価値を存在させ続けるためには、その人が死にたくなってたら真逆やん。

その、目的と真逆になってしまう手段っていうのが、いわゆる間違いやねん。

「大切やから」と守りすぎて過保護にして「人間らしい日常生活」まで奪ったら、それはそれで病んで死にたくなるし。

求められたこと全てに応じて与えまくっても、だんだん喜びに対する感受性がマヒしてきて、感謝も歓喜も薄くなっていく。

魚を与えるより、魚の釣り方を教えようっていうよく聞く話な。

そもそも、人に多くを求める時点で自尊心や愛情が欠如してるから、無限に欲が満たされず苦しいし、最終的には人の死がチラつく。

つまり、存在を存在させ続けるには、「自由」がマストなんですよ。

自由は、許容や肯定がないと生まれない。

そうは言っても、具体的にどうすればいいんだって思うかもしれんけど、何もしないことが愛することになるケースもあるねん。

なぜなら、愛するとは言っても三段階くらいあって、その段階ごとに難易度が変わるねんけど、

一番初めの段階ですでに立派な「愛する」やから、カンタンに及第点やねんで。

第一段階 許容

存在を許すこと。

これがもう、立派な「愛する」ですよ。ほんまに。

んーーでも、カンタンつっても、これがでけへん人が多いから自尊心がみんな欠落してるんやもんなぁ。

僕がここに居て、この文章を嘘偽りなく本心で書いてて、あなたはこれをここまで読んでる。

それって、あなたは僕の存在を認識して、許してくれてるってこと。

許容してくれてるってこと。

これは紛れもなくあなたの愛なんですよ。

本当にありがたいし嬉しいこと。

これを知ると、世の中、けっこう愛が溢れてるって気付けるのよ。

愛されてるし、自分もたくさん愛せてるんやなーって、気付ける。

でも、それに気付くには、大前提としてまず「自分の本体が肉体や命じゃなくて心(意識)なんやな」って、気付けた人だけやねん。

だ・か・ら!!

自分をまず愛せば、今よりかはこの世に転がってるたくさんの愛に気付けるよってことですよ。

どんな異常も正常

つらい、苦しい、愛されたい、しんどい、幸せ感じたい、寂しい、切ない、抱きしめられたい、抱きしめたい、優しさがほしい、ラクしたい、ダラダラしたい、働きたくない、学校に行きたくない、遊んで暮らしたい、楽しいことしたい、死にたい

みんないつも色々考えてると思うけど、その自分の本当の気持ち、恥ずかしくなりそうなくらいの素直な赤裸々な気持ちを、まず自分で認めてあげて、そう考えてる自分の本体を全部許してあげて、そしてそれを全部引っくるめて、人間らしい自分を素直に受け入れてあげるねん。

それでいいんだよ、どんなこと思ってもどんなこと感じてもいいよ、それが人間だよ

って。

全部、100%、理由や原因があることなんだから、どんな気持ちも正常なんだよ、おかしくないよ、生きててえらいよ、ってさ。

それが第一段階っす。

第二段階 肯定

愛するってカンタンやでって書いたけど、

第一段階は

存在を許容する&知ること

やんな。

次は第二段階から。

肯定すること。

第一段階の最後でも書いてたけど、

「ありのままでいいんだよ」

という、意志による肯定。

これは、けっこう根気というか、知識とかも必要。

人と比べたりして、誰かに勝ってるから肯定するのは、違う。

そりゃ、ただの比較。

肯定ってのは、語弊を恐れずに言うと、

「どうあったってお前は尊い存在なんだ」

ってことを伝え続けることやねん。

これをするには、どんだけ否定したいようなことがあっても、

全力でこねくり回して肯定すればいい。

しかも、ネガティブ感情をも肯定しながら。

「自分なんてダメダメ」

みたいなことを言う人に対して、

”そうやって思ってしまうのも仕方ない理由”

をなんとしてでも見つける。

そして、そのネガティブ感情が正常なことやって伝えつつ、

存在してることそのものを肯定する。

本当に愛情があれば、カンタンなはず。

難しいと感じるなら、対象への愛情がそもそも希薄ってこと。

つまり責任を持つのが難しいから、半端に関わって相手を振り回すくらいなら、

関係を断った方が相手のためになる。

この基準は、けっこう大切。



第三段階 開拓

第三段階というか、第二段階の肯定をするためにはかなり知識や論理性や根気っていうごんぶとの愛情の柱が必要やから、

どれかが足らないと何もでけへんよねっていうとこから、じゃあもう1ステップ先に進んでみようって感じ。

開拓ってのは、言い換えると、

現実的な応援

ってこと。

可能性の開拓のこと。

よく「応援してるよ」なんて言葉は聞くけど、十中八九、

口だけ

みたいなケースが多い。

いや、人それぞれ事情があって、現実的に何か応援する余裕がない場合もある。

けど、本当に相手を応援したり、励ましたり、もっと幸せになってほしいと思うなら、

体・心・時間・金

などのリソースを、どれをどれだけ注ぐかがその想いの強さの指標やねん。

家庭や学校の教育にも言えるし、友達や恋愛その他人間関係、ビジネスや趣味すべてに言える。

現代では「テイカー」なんて言葉をよく聞くようになってきたけど、

まさしくあのテイカーってのは、この第三段階目の開拓とは、

真逆

のことをしてる人たちやねん。

現実的に生きていく上でリソースってのはあればあるほどいい。

やのに、こともあろうに親子でも家族でも恋人でも、関係性を問わず、問答無用で奪う人は世の中たくさん。

ハッキリ言うけど、関係性にあぐらをかいてリソースを奪い合うなら、

そんな関係は最初からないほうが人生は豊かになる。

つまり、これもやっぱり「愛情の指標」として一番有用な基準。

リソースをどれだけ割けるか。

見返りを求めない無償の愛なんて幻想やと思うかもしれん。

けど、そもそもリソースを割くこと自体が見返りになってる状態が愛情。

ギブ&テイクは非効率やし不安定。

ギブ=テイクなら無限で最強。

それ以外は、自分が相手を愛する意志そのものが少ないってことやから、

カンタンも難しいもなく、愛をどうのこうのっていうフィールドじゃないねん。

だからこそ、最初っから開拓なんて意識せずに、とりあえず第一段階に戻って、

一番イージーな「許容」や「知る」っていうとこから始める必要がある。

まずはそっからやねんな。




マクロとミクロのスケール

存在の許容とか、知るとかって言ってるけど、

これって家庭や職場や学校っていうフィールドだけの

話ではないからね。

地球の裏側に居る人らだって、なんなら他の動植物だって、

あなたの存在を否定してないやん?

否定してないってことは、完全な無意識で認識のしようもないくらい

知らないことやったとしても、

れっきとした存在の許容やねん。

一番スケールを最大にしたら、

「存在してる」

ってこと自体が存在の許容やねん。

つまり、もうあなたもそこに居るだけで、

この世に存在を毎秒許容されてる=愛されてるってことや。

当たり前なんてないからさ。

5秒後に飛行機が自宅に墜落してくるかもしれん。

大地震が起きて屋根が崩れて下敷きになるかもしれん。

飲酒運転の車に轢かれるかもしれん。

脳梗塞や心筋梗塞で死ぬかもしれん。

”存在しなくなる可能性”って毎秒孕んでるやん。

でもいまこれをあなたがまだ読み続けてるってことは、

この瞬間も存在を許容されてるってことやん。

だから、すげぇ愛情が常に自分にとめどなく降り注いでて、

それが紛れもない事実なんやっていうこと。

もちろん、自分自身も、世界中の人々の存在を許容してる。

この世の存在を許容してるやん。

ミクロで言えば、

人間の体内には100兆匹の微生物が共生してるし、

そんなん実際には意識してないけどちゃんと存在してるねん。

許容してるやん。

つまり、スベテを無意識に愛しまくってるし愛されまくってるってことやねん。

意識しなくてもできてることやねんから、こんなにカンタン♪なことはないやろ。




まとめ

💡POINT

・「自分」とは「意識=心の存在そのもの」
・心のスケールや可能性は無限大だから愛でよう
・愛するとは「許容・肯定・開拓」の三段階あるよ

普段、日常生活を送ってると、うまくいかないことがあったり、

人間関係ってなんて難しいんや😨って悩んだりすることもある。

僕もある。(あるんかい)

でもこれって、実はめっっっちゃくちゃ表面的で、打算的で、一時的で、

本質から逸れまくったことやねん。

どうしても人は環境に染まるから、そういうことで頭ん中がいっぱいになってしまう環境で生きてたら、

見失うのも仕方ないとは思う。

だからこそ、より意識的に、自分の心とか、求めてるものの曖昧さに気付く時間を設けるようにしたほうがいいねん。

断捨離とか、守破離とか言うね。

心という自分の本体を愛でるために、体も命も愛でる。

愛するってどういうことやったっけ🤔って、何度も振り返る。

過去なんて振り返らなくていいから、自分の心を常に振り返る。

仕組みを思い出す。

あなたのリソースは十分にあるのか?

その貴重で有限なリソースをどこに、誰に注ぐのか?

常に考えながら、調節しながら、毎日を過ごせば、

つまらん日常も彩りを得て輝きを増してくと、

断言するよ。

それではバイバイ。


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