「家族なんだから○○」血縁の呪いと愛情への思い込み

家族という関係性を盾に、自分の要望を貫こうとする人が居る。

度が過ぎると、本人以外の家族は、理不尽にリソースを消費される。

こういう一連の出来事に対して、モヤモヤを抱えてる人は多いと思う。

そのモヤモヤを放置することで、少しずつ、でも確実に、心は削れて、人生は歪んでいく。

今回は、そういうモヤモヤを解消する知識を書いていく。

自分か、自分以外か

唐突だけど、家族は他人です。

って言うと、世間的には「薄情」とか「恩知らず」って言われる。

でも待って。

誰しも、自分じゃない人間は全員他人やから。物理的に。

他人の気持ちや感情や痛みなんて、絶対に100%理解しきれないのが法則・摂理・真理だから。

そもそも人間は無意識の生き物だから、自分のことすらちゃんと理解せずに死んでく人の方が圧倒的に多い。

自分以外の人間の理解となると尚更。

他人を理解できないからこそ真剣に理解しようと努めるし、些細な気遣いにも深く感謝するし、配慮する。

それが愛=可能性の開拓。

血縁に胡座をかく事こそ、エゴ。

血縁・関係性の勘違い

一番身近で、過去に共有した時間が最も多いであろう理由として「家族だから」があるだけで、家族だから何をしても許されるとか、家族だから無条件で愛そうって理屈は、大間違いの筋違い。

特に、産んであげた・産んでもらった論は人の数だけ意見があるからなんの意味もない。

互いのリスペクト、感謝、労いが、シーソーみたいにバランスが取れているかどうか。
互いにその気があるのかどうか。

人を判断する時に、優先事項や基準を関係性に置いちゃいけない。
「相手から何をどれだけ与えられたか」と「自分が何を与えれるか、与えたいか」の総合値と、そのバランスだけでいい。

愛なのか憎しみなのか、苦痛なのか快楽なのか、心なのか金なのか、思い出なのかトラウマなのか。

自分が幸せじゃないと何もかも無価値になる

現在の自分が幸せじゃないって人はそもそも生きてることや産まれたことの価値を感じられないから、当然、産んでくれたことへの感謝とかもなく、人から与えられた価値にも気付かないねん。

現在の自分を幸せにすることが全ての始まりで、極めれば悲劇的な過去すら全て価値になって感謝できるわけやから。

だから、曇りなき眼を持つためにも、今の自分を幸せにすることってとても大切。

関係性の免罪符を捨てれば良い関係性を築ける

───ほんとにここ数年、ニュースでも周りの話でも「家族」を免罪符にした変なエピソードをよく聞く。

  • 家族のもの勝手に捨てる
  • 家族だから軽くあしらう
  • 家族だから助けてもらって当然
  • 家族だから言うこと聞け
  • 家族だから言わなくてもわかって
  • 家族だから八つ当たりしてもいい

「家族だから時間や心や体力や金を消費して良い」なんて、そんな法律はないし、むしろ違法性すらまとってる。

人を苦しめる免罪符に「家族」という関係性を使うくらいなら、「自分 or 自分以外」で括って、平等に思いやり持って接する方が、優しくなれるし感謝もできる。

逆に、おかしいことはおかしいって言える。

なんぼか快い家族関係を築けるよ。

関係性に縛られるのは、そりゃただの依存やから。

まとめ

本来は「自分と他人」っていう括りすらいらなくて、自分も含めた「人間」と真剣に向き合って、自分も人も大切にしよう、愛そうって姿勢が、最高やで。

脳科学的にも哲学的にも道徳的にも論理的にも合理的にも、ね。

大切にしなくて良い人なんて、自分も含めて居ない。

大切にされなかった人が、人も自分も大切にしない人になって、また他に大切にされない誰かを増やすんやから。

あんまり家庭環境よくなかった人や、今も渦中に居る人、新たに家族を作る予定がある人も、そんな悲しい連鎖を、まさに自分の心で止めようって意識と行動を、一人でも多くできるようになってほしいと、心から願う。

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