「自分なんて…」がとんでもないエゴである理由

人類皆平等、なんて言うけど、こと人間社会では公平に不平等だなぁと感じる。

僕自身、何度もココで話してるように、自尊心なく生きてきて、自尊心のなさから来る不幸感を全力で紛らわすために「粉骨砕身で人の役に立つ」という生き方をアラサーまで続けて生きてきた。

純粋な、自然な、本能的な、心からの「人を幸せにしよう」じゃなく、最終的に自分の心の穴を満たす目的で。

自分の価値がわからないがゆえに、自己犠牲の人生に陥ってた。

トラブルや被害に何度も巻き込まれて、病気やケガや事故や事件で死にかけてるうちに、さすがに命の価値とかヒトの価値とか自分の価値とか、存在意義とか、幸せとか、そういうことについて本腰入れて真剣に考えるタイミングがあってんな。

そこでわかった最終的な答えは、自分の価値がわからないというのはただのエゴだということ。

なぜなら、そもそも生き物全般、マスター的な存在ではなく、サブ的な存在だから。

生き物はマスターではなくサブ

生き物は、マスターではなくサブやねん。

いきなり結論から言ってるから意味わからんと思うけど、この一点に気付いたのが大きかった。

日々生きてると、当たり前のように「自分の意志で生きてる」と僕ら人間は思ってるやん?思ってるっていうか、そんなこと意識するまでもなく、完全に信じ切ってる人が多いと思う。

自分の命とか、自分ってものの存在にとって、自分の意識や心が「マスター」やと思ってるはずやねん。

でも、それってただの思い込みやって気付いてんな。

だって、自分の意思で生きられてるなら、心臓を自分の意思だけで自由に止められないとおかしいもん。

我々が己の意思でできるのは「生きてることをムリヤリ止めるか止めないかの行動の選択」だけ。

そして、僕らの心や肉体、あらゆる物質や現象の全ては「サブ存在」で、たかだかそのわずかな一部である人間には、産まれたことや体が生存してることそのものに対して決定権も責任も原因も権利も何もない。

 
自分の意思や意識が全く及ばないところで無限に発生して繰り返され続けてる、時空間や自然現象の仕組みこそ「マスター」で、その広大無辺のマスターに「あらゆる存在というサブ」が全て内包されてる
 
すごく大きなスケールの中で、生き物って存在させられてて生かされてるのに、こと人間においては、責任だの義務だのを自分達に課して、自分達で勝手に苦しんでるねん。
 
 
 

人間の間でだけ責任が存在する

産まれる・生きる・老いる・死ぬ……の責任は、言うなればマスターである「自然」に有るわけで、サブの一部である人間には無いけど、人間に責任があるとしたら「人間の意思で行動して生じた結果に対する責任」やな。

ただ、責任を取る必要ってのもなくて。

全部自由。

とは言ってみたけど、本人が不幸だったり苦しい原因が明確じゃない状態で人のせいにするのは責任転嫁で、したけりゃしたらいいけど、なーんも根本的に解決しないから、命の無駄遣いなだけやねんな。

面白いのは、

責任を取れ!

って言う人のそのほとんどが、自分が気に入らないことに対して、「自分が気に入らないことの自己責任」を取らずに他人に責任転嫁してるってとこ。

実は責任なんて誰にもどこにもなくて、ただひたすら因果があるだけ。

全ての価値は等しい~一元論という無敵の哲学

僕は、ここまで話したことが「一元論」という哲学だと後から知った。

「1=∞」

奥義書・ウパニシャッド哲学とも呼ばれる思想なんだけど、思想というか、どう考えてもこれが真実やねんな。

我々人間は、何に対しても価値を付与したり値踏みをするけど、それは相対的価値というもの。

その相対的価値観で、さっきも書いた「マスター」を捉えるのって思い上がり甚だしいのよ。

なぜなら、存在とか現象とかってのは、それそのものが即ち価値だから。

これを「絶対価値」って言うわけやねんけど。

「この世に存在してる・した」ってだけで、全てが価値。

つまり、そのへんに転がってる石ころも、砂漠の砂1粒も、人間も、気候や空間も、知覚できるものもそうでないものも、「有る・在る」ってだけで即ち価値なんですよってこと。

しかも絶対価値には高い・低いの概念がない。

どういうことかというと、

有る or 無い の二択は二元論

だけど「悪魔の証明」とも言われてる通り、暫定的に「無」というものは見つかってないんですよ。

有る の相対概念として

無い があるだけで。

つまり、「有る・在る・居る」の一択=一元論ってこと。

有る=価値、なんとなくわかるかな?

これってすごいことやねん。

だって、存在が必然ってことやねんもん。

全ての存在が必然やねん。

「たられば」は全てフィクション

全ての存在が必然、と話したけど、それはなぜなのか。

どんな存在にも言えるけど、その存在が「無い場合の世界」っていう、SFではお決まりのパラレルワールドや並行世界線なんて、今の所ないから。

例えば、自分って存在に置き換えた時に、自分が存在しない場合の世界ってのが存在しないってこと。

自分がここに必然で存在してるってことよ。

そして、その「一人の人間が存在してる」っていう必然と奇跡が、78億通り、同じタイミングで起こって今の人類が在るってこと。

これって、空想とか妄想とかじゃなくて、圧倒的に真実やからね。

精子数億匹の競争に勝って、この時代・この星にヒトとして一人が誕生し、生かされてる。

宝くじ1等が何兆回当たっても全然足りないくらいの低確率 ✕ 人口分、同時に起こってる。

飽くまでも人間に限定した話やから、さっき書いたサブ存在を全て合わせたら、ちょっと人間の脳ではイメージしきれない規模になるわな。

「運命共同体」なんて聞くけど、改めてこの言葉のスケール感に驚くよ。

で、全ての存在に当てはまることやから、全ての絶対価値は完全に等しいってことになる。

虫けらもヒトも同じ絶対価値

ここまでの話でいくと、そのへんの昆虫も人間も同じ絶対価値ということになるやんな。

じゃあ、

虫を踏み潰すように人間を殺しても問題ないのか!?

って声が聞こえてきそうやけど、いや、虫も人間も、攻撃されてないなら攻撃するなよ。

そりゃ毒を持つ昆虫や爬虫類とか、屋内のゴキブリやらダニやらは病原菌とかアレルギーとかの観点から自己防衛のために殺生もやむを得ないけど。

そもそも動物も植物も基本的には殺すなよって話で。

生態系を脅かすくらいに異常繁殖した種を、均衡を保つために間引くのは必要なことやけど。

自分は人間であるという認識を持つべし

こっからがヒトの命の価値の話になるわけやな。

ヒトは、ヒトとして、ヒトのために、ヒトを大切にするのが正解なわけよ。

なんて言うと、

虫は滅亡してもいいのか!?

植物は枯らして燃やしていいのか!?

お前は環境破壊を肯定するのか!?!?

なんて声が聞こえてきそうやけど(実際に言われたこともある)、食物連鎖の観点から考えたら、環境破壊最終的に人間も滅ぶわけやん。

だから、あらゆる資源や動植物の均衡を保つ努力だって、自分を幸せにすることだって、人間を一番大切にすることに直結してる。

「ヒトを大切にする」って目的は、ヒトが幸せになるため。

ヒトが幸せになることに通じる全ては手段であり、ツールであり、方法やねん。

だから、本末転倒して目的と手段がごっちゃになったら、同じ人間同士で足の引っ張り合いしたり、苦労の押しつけとかいろんな奪い合いが起こる。

それが、いかに愚かかってことやんな。

人間は人間を大切に。

人間にとって人間の価値が一番大きくて、その人間ってのは一人の集合体だから、当然、まず一人を大切にすることから全てが始まるわけです。

つまり、これを呼んでるあなたが、自分自身を見くびらずに、蔑ろにせずに、ちゃんと大切にして、健康で幸せに長生きすることが、何よりもの人のためになるし、1人がそれをしないと社会も国も世界も人類も地球も良くなるわけないんやから、1人として存在してる時点で、あなたはもはやめちゃくちゃ極大の価値の塊ってことです。

それを否定するのは、圧倒的なエゴやから、エゴイストにならないでね。

 
 
 
 
 

まとめ

 
 
  • 我々は自分の意思だけで心臓を止めらない
  • 何らかの仕組みによって生かされてる
  • 産まれたことも生存してることも己の意志は無関係
  • 自分が自分であることにすら責任がない
  • 時空間を含む自然の仕組みそのものがマスター(=命)
  • ヒトの意思や心はその他のサブ存在のほんの一部
  • 存在してることは紛れもなく必然
  • 奇跡的な低確率なのに必然の現象が人口78億人分、同時に起こってる(運命共同体)
  • そこに自分も確かに選ばれてるわけだから、唯一無二の価値がある
  • 人間が値踏みする価値は曖昧で不確かで移ろう相対価値
  • 存在 即 価値っていう絶対価値に着眼することが大切
  • 一度存在した事実は永遠に消えない
  • 人間1人が存在するために最低でも数十億以上の命が犠牲になってる
  • ヒトはヒトとしてヒトのために大切にすべきことを大切にすればいい

そう、一言で言うとこれらが「愛」なんです。 

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