「あんたはほんまめんどくさがりやなぁ」
「ラクばっかりしてええな」
「苦労してないと人の気持ちわからない人間になるよ」
いやぁ~~小さい頃からさんざん大人たちにこういう苦言を呈されまくって育った私だよーん。
じゃあ車も電車も飛行機もチャリも使わず移動して、炊飯器使わず米炊いて、洗濯は川に行って手でゴシゴシして、ほうきとちりとりで家中掃除して、電話もメールも手紙も使わずに知り合い全員に挨拶するでもじかに会いに行って、テレビも観ずに新聞も観ずに自分でジャーナリストばりに現地で情報収集して、電卓も使わずに紙とペンで計算して、音楽はiPodもステレオも使わずカラオケも行かず鼻歌オンリーで、病気になっても怪我しても病院に行かずに自力で全部耐えて寿命を縮めて、原始人みたいにサバイバルして一生を終えてください。
………………ってことになるやんな。
もう、みなまで言う必要ないやんな。
「もっと便利な生活がしたい」
「もっと楽しいことがしたい」
「痛みや苦しさを簡単になくしたい」
「もっとラクがしたい」
こういう様々な人間の「怠惰」な部分、めんどくさいって気持ちが、現代の先進国の豊かさや便利さにダイレクトに反映されてるわけですよ。
そのために人間はたくさん学んで、研鑽して、研究して、発見して、実現して、発展してきたわけやん。
だから「めんどくさい」ってのは、新たなる未来への希望やねんで。
でも、当然「めんどくさい、だから何もやらない」ではダメで、まずはその”やること”が本当に自分がすべき苦労なのか、本当にそれをしなければ死んでしまうのか、それをしなければ人生や時間や命をムダに消費してしまうのかを考えないといけない。
ただ、現代で、現実で、”それをしなければ人生や命が無駄になる”ってことはほとんどなくて、むしろ逆に「それをしてるから人生や命を無駄にしてる」ってことばっかりやねん。
つまり、「やる必要もないめんどくさいこと」ばかりを、なぜか強いられる。
このブログで何度も言ってるけど、内発的動機以外で何かをやるってのは、非効率・非合理の極みで、「つらい・しんどい・イヤだ」って気持ちの最果てには人間の死が確実に待ってるから、人から言われて何かを我慢して耐えながらずーーーっと続けるって、自殺と一緒で、それを強制してくる人間ってのは、たとえ家族であっても「殺そうとしてる」のとほとんど同じ意味やねん。
不幸ってのは、端的に”苦しい状態”ってことやけど、その苦しい状態を家族でも友達でも恋人でも平気で強制してくるやん。
「イヤだ」って言っても、し続けなければならないことなんて、実は何もないねんな。
人間ってのは本能とか欲望ってのがあって、なぜ本能や欲望があるかと言うと、意識的・無意識的を問わず、「命が生きようとするために備わってる最低限かつ絶対的な仕組み」やからあるねん。
お腹が空けば食べるし、喉乾けば飲むし、眠かったら寝るやん。
それ以外、どうでもいいことやねんな実は。
んで、現代のフードロス問題では、500万トンの食べられる物がゴミになってて、それは2000万人が1年間生きていける量で、”飽食の時代”と言われてる通り、少なくとも先進国で餓死することはないねん。
んーー、実際には、最近でも若い人が餓死したニュース見たけど、悲劇やな。
「貧乏やったら食べるもの買われへんやん」
って本気で思ってる人も居るみたいやけど、田舎とかやと野菜とか米とか大量に分けてもらえたりする。
極論、食べるもの買われへんくらい貧乏やったら生活保護でもなんでも受けたら良いし、この国の福祉は意外に慈悲深くて、基本的人権と生存権が最高法規にある以上、絶対に人が飢えて死んだり医療を受けられずに死ぬなんて仕組みにはなってないのよ。
ただそういう制度を知らなかったり、見栄とか意地とか世間体っていう、歪みまくった社会風潮によって刷り込まれた偏見や価値観によって忌避されたりして、言葉は悪いけど「勝手に自分で自分を苦しめて死ぬ人がたくさん居る」ってだけやねん。
なんせ、さっきの生活保護においては、受給できる条件を満たしてる世帯のわずか約20%しか実際には受給されてないからさ。
よく、
「障害年金や生活保護受給者は、人様の血税で生かされてるんやから節約して慎ましく生きろ」
みたいな意見を目にしたり耳にするけど、いやいや、生活保護に充てられるための予算の80%は国庫に逆戻りしてるんやで?
しかも他の税金と同じく使途不明なんやから、そっちのほうがよっぽど問題やし追求するべきやろ。
これらも言わば、弱者を更に我慢させて苦労させて虐げて、自分らが狂った価値観で勝手に苦労してるだけやのに、それによって欠如した自尊心を満たすために、尊い他人の命や人生を消費して一時的な優越感に浸る手段にしてるだけやねんな。
経済的に贅沢してる人より、そういう人らのほうが圧倒的に害悪やからね。
経済的には、お金って、使えば使うほど貢献してるってことやからね。
めちゃくちゃイヤな仕事をしてる労働者は、汗水垂らして稼ぐほどに税金取られる累進課税。
そして現状維持バイアスかかったまま、他者には苦労の正当化や押し付けをする。過労死を美化する。
投資家・資産家は、ぼけーっとしながらも労働者の生涯年収分を1ヶ月で配当で稼いだりする。
税金は一律20%だけど、納税額としては圧倒的。
苦労のせいでストレス溜めて余暇に人に八つ当たりしたり憂さ晴らしする人らと、ラクをして大勢に貢献する人ら、どっちが有益かは明白やん。
僕自身、今でこそ病気で倒れて障害年金でのほほんと暮らしてるけど、もともと気合いと根性の人間で、どの職場でも絶対に「必要とされる人」に何がなんでもなってた。
めんどくささからの反骨心で、これでもかってくらい全力。
今思えば、病気と障害あるのに健康な人間より結果出して、周りのハードルを上げてまくってて、ただの迷惑なヤツやから。
そういう自分しか認められず、自分が感じてるめんどくささは悪だと思ってた自分自身の問題やのに、周りの人に苛ついて悪態ついてた。
経済だけの話じゃなく、精神力や労力、時間といったヒューマンリソース全てに言えること。
”幸せや満足のハードルが高くて多い人”も、自分で自分を不幸にしてて自分の首絞めてる。
「ちゃんとしないと」
「○○であるべき」
「自分はもっとできる」
「こんなんじゃダメだ」
こういう、ハードルをちょっとでも高く設定する人は、能力はあってもあんまり頭良くない。
何度も言うように、ハードルってのはどんどん無くす方向へ考えるのが「建設的な考え方」やねん。
効率的・合理的な手段や方法を突き詰めることが、人間の人生や時間や命や心ってのの余裕をどんどん産み出すわけやねん。
人間の最大の目的は人間を幸せにすることやから、まずは不可逆のリソースをいかに消費しないかってのが最重要課題なわけやん。
資源で言うところの”エコ”ってやつやんな。
昭和の可処分所得から、平成の可処分時間、そして令和は可処分精神になってくる。(要約)
とは、幻冬舎の編集者の箕輪厚介さんという人がとある番組で仰ってたことなんだけど、思わず膝を叩いた。
お金、時間、心。
全てはリソース(資源)なのは周知やん。
そして、時間ってのは即・人生のことで、僕は1秒こそ人生っていつも言ってる。
だけど、それは生き急いだり焦ったり常に何かを強迫的にやりまくるって意味じゃなくて、「瞬間」に集中したほうがいいってことやねん。
わかりやすく言うと、「休む時も全力投球」ってこと。
それは、効率的・合理的を追求するって意味やねん。
最小限のリスクで、最大限(ベター)のリターンが得られるようにする。
働く時も、休む時も、遊ぶ時も、何してる時でも何もしてない時でも。
これが僕の「人生とは1秒のこと」って言葉の真意。
アメリカの作家のデール・カーネギーって人は「人生とは今日一日のことである」って仰ったらしいけど(名言として有名)、今日一日は86,400秒のことなわけやからさ。
仕事・学業、睡眠、入浴や身だしなみ、食事などの時間を引くと、一日は10,000秒くらいしかない。
結局は人生って今だけやねんな。
めんどくさくて将来性が微妙でさらにイヤなことなんて、1秒もやってる場合じゃない。
今、真剣に、全力で、本心で、命を使わないと、不完全燃焼で後悔ばかりの過去がどんどん量産されていくわけやから。
つまり、幸せな人生とか、充実した人生って、いかに主体的に、意識的に、己の命を使ってるかって意味やねん。
それがよく言う「使命」ってやつね。
使命って言うと、「自分にしかできないこと」とか「自分がやるべきこと」って意味に捉えられがちやけど、ちょっと脳内をフラットにして考えてみて。
そもそも、あなたはあなたしかいないねんで?
僕も僕しかいない。
つまりは、自分が自分としてやることなすこと、全てが「自分にしかできないこと」なわけやん。
たった一言、挨拶するのでもそうやで。
あくび一つするのでもそうやで。
それを理解・自覚した上で、1秒を感じるようにすれば、充実するよ。
そして「めんどくさい」から「ラクな方法を考える」っていうふうに生きれば、人生はより良く、今すぐに音を立てて変わり始めるよ。
またでbye。