【亜人】人が恐れるのは死か、痛みか

※ネタバレあり

邦画の亜人を観た。

「人は、死を恐れてるのか、痛みを恐れてるのか」という問いに関しては、自身は後者だと思ってる。致死量の痛みを感じ続け、心肺停止したとしても蘇生させられてまた致死量の痛みを感じ続けることは、死よりもつらいことだと思う。劇中の亜人・佐藤は、その「生きてる中で最もつらいこと」を20年も理不尽に経験させられる。

死なないことは能力ではあるけど、幸福ではない。幸福とは心が満たされていることだから。

現実でも「若返り」「アンチエイジング」という言葉はよく聞くし、いろんな創作でも「不老不死」はお決まり。そういうのを見るたびに、生涯で実際に起こり得る苦痛をどうして無視する人が多いのか僕にはよくわからない。どうして苦痛と苦悩を減らして心を満たす方法を最優先で“多角的”に考えないのか、僕にはよくわからない。

なんとなく人を見てて思うのは、人生80年だら100年だらを“幸せに”生きるつもりがないように見える。もう少し言い方を変えると、「いい死に方」を考えていない。

  • 苦痛
  • 老衰

生き物の死に方は大別してこの2種類しかない。なのに、ほとんどの人が死に方について考えてない。
苦痛は、事故・事件・病気・自殺が挙げられると思うんだけど、これらに真剣に向き合ってる人がほとんどいないように見える。不思議。

過去の延長線に現在があり、現在の延長線に未来があるのは100%。
現在という結果は、過去に原因がある。
未来という結果は、現在に原因がある。

仮に今の自分の何かが満たされていないとしたら、それまでの人生すべてに原因がある。

  • 環境
  • 選択

この2つで人生は形成されてる。環境か選択、少なくともどちらかを激変させないと「人生」は変わらない。つまり同じ環境と同じ選択だと当たり前に満たされない日常が続く。

───自身は産まれて間もなくから病気・事故・事件で何度も生死の境をさまよう経験をしてきて、いくらか人より生死や命について考えることが多かった。周りにもなぜか、病気・事故・事件で同じように考えたり悩んだりする人が多いし、なんなら若くして命を落とす人も少なくなかった。

そんな中で29歳にしてある種の「悟り」に辿り着いて、それまでの心身の

  • 痛い
  • 苦しい
  • つらい
  • しんどい

といった苦悩から解放された時に気づいたのは、個人の自尊感情の欠落から、苦悩・自殺・偏見・差別・犯罪・戦争が起こっているということ。個人か組織か社会か世界か、スケールを問わず、個人の自尊感情の欠落からすべての「問題」が起こってる。

「寝てる時にキミはどこに居るか?」

この問いが最も重要だと、家族にも友人にもよく話す。どんなに悩んでいても苦しんでいても、寝てる間、僕ら人間は何も感じないどころか、8時間くらいが一瞬で過ぎて朝が来る。つまり、あらゆる現象というものをまず始めに意識が認知して、その認知した後に問題かどうかを自意識が判断しているだけ。

何を当たり前のことを……と言う人もいるかもしれないけど、物事に対する自己認知をあまりにも過大評価するエゴにこそ人間の不幸の根本原因がある。

外的な問題なんて無限にある。だから心の平安を本当に得るには、何かが問題だという考えそ
のものを捨て去るしかないんだ

シリコンバレー最重要思想家ナヴァル・ラヴィカント

これはシリコンバレー最重要思想家ナヴァル・ラヴィカントという本の一節。ここに付け加えるとすれば、

「無数の現象が存在するだけ」

原因と結果、この無数の連続が現象を起こして、現象が同時進行でいくつも生じてるだけ。それがこの世界。
出来事だけじゃなく、心さえも含まれる。いや、むしろ心が人の行動を決めているから、人間社会という狭い世界だけに限定して言えば生じる出来事はすべて心が基になってる。これがエゴだという話。時系列の認知が歪んだまま。

まず、自然の摂理という大きな視点からの「命という仕組み」があって、体という器があって、その次にやっと意識を含めた心という存在(現象)が存在し得る。これは脳死状態の植物人間でも血液が循環して心臓が動き続けてさえいれば「生存」はしていられることからも容易にわかる。

命が真っ先。この時系列と優先順位を人間は、

という順番に勘違いしてる、という話。

たとえば昨今どこかしこで見る「忖度」や「同調圧力」がこれを表してる。序列やカーストと言った、人間の作った狭い仕組みにどっぷり浸かって比較と競争だらけの中で生きた結果、生きてるということや体が正常に動いてるという「仕組み」の極大の価値をすっかり忘れて、みんなの自意識(心)が過剰になって、本来なら最優先すべき価値を蔑ろにし合って、それぞれがそれぞれを道具化・手段化して苦悩してる。

「1兆円あげるから対価として意識と四肢と五感を差し出せ」

なんて言われたらきっと99%の人はNoというはずなのに、日常の中でそれらを最大限・最優先で愛でてる人は1%くらいしかいない。体と心だけ取ってもこの体たらくなのに、その大前提である命(仕組み)に至っては、計測不能な宇宙規模の価値があるのに関心すらないように見える。

『亜人』の劇中、亜人は死なないしリセットで元気満々マンになるけど、苦痛を恐怖してるのは人間と変わらないし、リセットできなくなることを極度に恐れてることからも、死を克服したとは言えず、本当に人間と何も変わらない。結局は現状維持バイアスとコンフォートゾーン(精神的な安全圏)から逃れられていない。人間も亜人も寸分違わない。

冒頭でも書いた通り、幸せの定義=心が満たされていることとするなら、

  • 仕組みによって
  • 仕組みの中で
  • 必然の偶然で一時的に存在させられてる心(自意識、自分、自我)

の存在を噛み締めて感動することで人は最大級の幸福を継続して得られるし、これこそが知的生命体であるヒトだけに与えられた特権とも言える。この映画で言えば亜人も人間も100%同じことだし、現実世界で言えば、

  • 病人か障害者か健常者か
  • 貧困層か富裕層か
  • 無能か有能か
  • 老若男女
  • イケメンか美女かブサイクか
  • マイノリティかマジョリティか

これらにもすべて100%同じことが言える。本人(意識)が本人として存在してる、生きてるという大大大前提の奇跡をスルーし続ける限り、比較競争の中でもがき苦しむ人生は変わらない。裏を返せば、これに気づけば『亜人』の主人公のように「何をすべきか」が明確になるし、生き方も死に方も見えてくる。

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