僕は人間が好きだ。だからといって、人間がみんな僕を好くわけじゃない。
僕は「優秀な人」に好かれやすい。エリートサラリーマンだったり敏腕経営者だったり、海外暮らしの人、才能あるアーティスト、形而上的な悩みを持つ人など。きっとサピオセクシャルやサピオロマンティック的な人たちもいるんだろう(明らかにいた記憶はいくつかある)。でも、一度は崇拝レベルで好いてきても、突如として「坊主憎けりゃ袈裟まで憎し」に豹変する人もいる。
ずっと慕ってくれる人、豹変して口撃してきたりする人、この違いはなんなんだろう?と頭のどこかでずっとモヤモヤしてたけど、最近『ルックバック』というアニメ映画を観て、ようやく謎が解けた。
主人公は、「絵がうまい」とか「漫画がおもしろい」と周囲に褒められることで悦に浸り、自己肯定感を維持するし承認欲求を満たしてた。でも突然、自分よりめちゃくちゃ絵が緻密で上手な人間がクラスに居ることを知る。その子は不登校の生徒。初めての挫折。そこから主人公は初めて意志を持って努力する。
努力・努力・努力───メシと睡眠以外は絵の練習をする。でも、いくら努力しても、一向に実力の差が埋まらない。もどかしい。悔しい。むなしい。ある日、完敗を認めて、練習を一切やめる。なんなら漫画も絵も描くこと自体をやめる。そんなとき、その不登校の子に初めて出会うが、なぜか主人公はサインを求められる───というのが序盤のあらすじ。
ここまで観て、冒頭に書いた「最初は超好かれるけどいきなり手のひら返しされるケース」がなんとなく紐づいてきた。ギフテッド属性があるかどうかなんだなと。
作中の不登校の子は、誰と比べるでもなく絵を描きたくて描いてるうちにうまくなった自己完結型、つまりギフテッド。一方で主人公は、絵を描くことが目的ではなく手段になっていたタレンテッドだった。
タレンテッドでも、ギフテッド属性があれば慕ってくれて、なければ手のひらを返してくる、という構図で現状は間違いないと感じた。
かつて謙遜して、インポスター症候群をこじらせて、「すごい人たちに好いてもらえるのに実態は何も至らない自分」という感覚があって恥ずかしく思ってた時期もあるけど、冷静に俯瞰して自分を見つめ直したとき、僕を好く人たちの「能力」を僕はすべて持ってることに気づいて、謙遜をやめた。
>そして、最高の自分へ。~心を縛る「インポスター症候群」を乗り越えるヒント [ リタ・クリフトン ]
たった一点の「健康」という先天的に決定される能力を持っていないから、その他のあらゆる能力を100%活かすことができないだけで、純粋な能力としては自分はいろいろ持ってることに気づいた。
- 会社員として仕事でNo.1の成果を出す
- ビジネスを起こして売上立たせる
- 人間関係の潤滑剤になる
- 英語で意思疎通を図る
- 人前で演説する
- 楽器演奏や作曲
- 絵を描く
- ITスキル
- 適当においしい料理を作る
これらは、そこまで難易度が高いとは思わない。なんとなく覚えてなんとなくできるようになったし、なんとなく人に教えてその人らも同じ結果を出せた───なんてこともしてきた。巷では、こういう人間のことをマルチポテンシャライトと言うらしい。
>マルチ・ポテンシャライト 好きなことを次々と仕事にして、一生食っていく方法
お医者さんがお手上げの病気を、自力で寛解させるほうがよっぽど大変だったから、他のことはたいてい仕組みがすでに決まってて、難易度としてはそんなに高くない。(とは言っても30まで身を顧みず生きて倒れて障害者になってドロップアウトしたけど)
だから、どれか1つだけ能力がある人(タレンテッド)たちはよく僕に対して「天才」と言ってくる。なんでもできて、なんでもわかって、すごい、みたいな。その人たちの考えや悩み、思いみたいなところもぜんぶ把握するから、盲目的に好かれるゆえの色眼鏡はあるにせよ、すごい人たちにすごいと言ってもらえることは誇らしいことなんだと思う。(気分よくはないが嫌われるよりマシ)
ただ、無邪気さだったり熱さ、鋭さみたいな「相対的に意外な一面」を僕が見せると、手のひらを返して途端に嫌ってくる人もいる。スキスキでスリスリしてきて、想像を超える部分があったらイヤイヤ状態になる感じ。めんどくさい……。
手のひら返しをする人たちに共通する特徴が3つある。
- 比較と競争にまみれてる
- パーソナルスペースがおかしい
- 認知が歪んでる
これらは一見、なんの関係もないように思えるけど、見事にコンボとして成立してる。
僕の周囲ではIQ120前後の人に多いけど、なまじなんらかの能力はあって、努力で習得したのかそれを武器に生きてるのかはさておき、能力自体が意地とか誇りになってしまってるみたい。だから誰かと自分を比べてわかりやすい部分で優れてるか劣ってるかというジャッジを、無意識か意識的か問わず都度都度で下してしまって、人の「一部」を勝手に見上げたり見下したり、好いたり嫌ったりして、そのまま人格評価に結びつけてくるんだろうと思う。
これをルッキズム(表面至上主義)なんて言う。
>ルッキズムって知ってる? (人は見た目!? ルッキズムの呪いをとく!)
人間は、比較や競争ばかりだと交感神経優位になってしまって、ストレスホルモンのコルチゾールが分泌され続けて、知能指数が下がる。知能指数が下がると、人の潜在ニーズどころか顕在ニーズすらわからなくなって、結果的にパーソナルスペースを侵し、認知が歪むから事実と妄想の区別すらつかなくなる。
>慢性的なストレスによるコルチゾールの増加が記憶力や思考力を低下させ脳の収縮まで引き起こす
そしてもっとも重要なのは、ギフテッドは手のひら返す人の特徴がすべて当てはまらないということ。なぜならギフテッドは、これまで得た知見や観測範囲内での特徴として、
- 比較や競争がとても苦手
- 臨機応変に距離感を大切にする
- 真実はいつもひとつ
が挙げられる。常に公平性・平等性・平和性に重きを置いてる印象があるし、僕も完全に共感・同意する。
そして人間関係・経済・健康などにおいて圧倒的にいい結果を出すのは、環境を最適化したギフテッド。
>ギフティッド その誤診と重複診断: 心理・医療・教育の現場から
つまり、タレンテッドは能力で、ギフテッドは属性。ギフテッド属性がある人は必ずなんらかの能力も複数は持ち合わせてるけど、タレンテッドにはギフテッド属性があったりなかったりするということ。
もっと言うと、タレンテッドはわかりやすく努力や苦労をして、勝つことや優れてることを目的として義務的・強迫的に能力を身につけた人が多いけど、ギフテッドは何かを楽しんだり没頭してる間に勝手にスキルやノウハウを習得していき、目的は全体最適化(みんなの幸せ)に設定してる人が多い。
以前からYouTubeや前身ブログでも言ってきたとおり、苦労の美化や正当化は、個人と世界のあらゆる問題の根本原因だから、タレンテッドの修羅的な生き方は本人もしんどいし、好き嫌いや優劣に振り回される周りもどんどんしんどくなっていくし、いいことなしで根深い。
限界効用逓減や感応度逓減でどんどん人間の幸せのハードルというのは上がっていくから、承認欲や自己顕示欲、称賛や競争で勝つことなど見栄や意地で生きると比例してどんどんしんどくなっていく。年齢を重ねるとリソースも減っていくのに、修羅的な生き方をしてるタレンテッドは己を労る自尊心がないから、サステナビリティを向上することすらなく、闇へ一直線。
みんな違ってみんないいんだし、存在価値と付加価値はベツモノなんだから、自傷的な生き方はやめて、比較と競争はエンタメとしてなかよく楽しんで、目的はみんなハッピーで一緒に生きたらいいのになと思いつつ、人の人生に責任は負えないからマニピュレーターにならないようにして、来るもの拒まず去るもの追わずでいつも静観する僕。