2025.01.05にはこのブログも消えるし、餞的な記事を。
こないだAmazonフォトを整理してた。写真はAmazonフォト、動画はYouTubeを無料クラウドストレージとして使ってるけど、ざっと一覧をあとから見返すと「いらんなぁ」と思うものが多いからたまに整理する。
整理してる中で、なかなか感傷に浸れる12年前の一枚が出てきた。
↓14年前
10年前に薬を断つ決意をするまで使ってた諸々。これだけの薬を使っても、持病をコントロールできてなかったと考えると、そもそもなんでそんな重症なのに自覚がなかったのか不思議でしゃーない。湿疹や呼吸困難もあったし、かゆみもあったし、鼻水・鼻詰まり、外耳炎で聞こえない左耳───そんな状態でもニコニコ元気ハツラツムーブで働きマンやった……こわい。
誰のためになんのために生きていたのかを、改めて思い返した。そんなこと、何も考えてなかったし、思考停止・意地・見栄でひたすら一日一日を生きてた気がする。20歳超えても、学び続けなかったらずっとアホなんやと改めて思う。
休むこと・あきらめること・やめること・しんどいと言うことをダサいと思ってたし、悪いことだと思ってた。もちろん、周りの環境がそういう思考や価値観にさせたのは当然ある。だけど、それにしても強靭というより狂人の沙汰だった。
いつまで生きるかよりどう生きるか
そんな言葉を何度も聞いたことがあるけど、どう生きるかの観点でもあのまま生きてたら早死してた上に後悔してただろうから目も当てられない……結局はどう生きるかを論じるにも「健康余命」ってのはそれなりに必要なわけで。
自分のことを何も大切にせずに追い込んで追い詰めて、愛されたくて許されたくて、何もかもやめたくて、一人になりたくて、八方塞がりでどうしようもなかったあの頃の自分を、馬鹿だと思うし不憫だと思うし、反面、誇らしいとも思うし愛しいとも思う、そんな不思議な感情を抱いて感傷に浸るきっかけになった過去写真だった。
ありがとうAmazonフォト。