最近、デジタルで文章を作る時に葛藤がある。Webライティングできなくなる病にかかってしまったというか。年間で200本以上の論文を読んでると思うけど、当然、「昭和の新聞かな?」くらい、文字がびっしり敷き詰まってる。それに慣れすぎて、自分がいざ文章を書く時、カンタンに読めるように工夫する違和感が大きすぎる。
───YouTubeやtiktokなどでもショート動画が隆盛している昨今、10年ほど前から「いかに頭を使わずに観られるか」に焦点を置いて動画・音楽が作られてる。
- 冒頭アバン(プロローグ):10秒
- アイキャッチ:2秒
- 字幕の文字数:10文字/1行
- 音楽のイントロ:0~5秒
といった具合に、現代人は「待て」ができなくなってる。
一つの媒体やパーソナルにがっつり溶け込んで、するめのようにしがんで味わいつつも「新情報にワクワクする」なんて体験がなくなってるように思える。
エンタメにまで「タイパ(タイムパフォーマンス)」なんて言葉が出る始末。
そんな時代に、知識のアウトプットをする側の人らは、おそらく誰もが多少なりとも葛藤を抱いてるんじゃないかと思う。いまの僕みたいに。
「情報」は不確かが付きものだけど、「知識」は正確性が最重要。正確じゃない知識は知識ではないから。
多くの場合、知識は人生を好転させる。豊かにする。だけど知識を得るには学習が必要で、学習はエンタメ性がないと吸収スピードが遅くなるし、とっつきにくい。
僕は、人に「人生が必ず好転する」ための知識をシェアするのがクセなわけだけど、
- 体
- 心
- 金
- 時
どのQOL向上であれ、どれもが「本質」だから、プロセスはかなり複雑になってる。なんせソースが論文だから。
論文を読むのが日常だから、密集した文字に対してなんの抵抗もないわけだけど、タイパ重視の現代人にとっては文字の集合体はただの緻密な抽象画くらいにしか見えないんだろうと思うと、アウトプットすることそのものの是非にまで思考が及ぶ。
全く知らない国の言語で10時間アウトプットしてもただの徒労に終わることは容易に想像できると思うけど、知識のリテラシー具合によっては完全に同じことが起こる。誰も知らないことを、誰にもわかるように説明する難しさったらない。
このブログもそう。なんでも「型」というのがあって、
- 論文
- 小説
- エッセイ
- 漫画
- ブログ
どの媒体であっても書く時のルールがある。共感や理解を深めるテクニックも含めて。だから、漫画を描き慣れてる人は小説を書く時のルールがわからないだろうし、ブログを書き慣れてる人は論文を書くルールを覚えるのに苦労すると思う。
当然Webライティングにもルールがあって、いまこれを読んでもらってる通り、
- 改行を多用
- リストを多用
- 太字
- 斜体
- フォントカラー
- テキストマーカー
- テキスト背景色
- 冗長な文章は省く
- 小学生でもわかるような言葉
たくさんルールがある。極めつけは「画像を多用する」。(僕はあまり使わない)
論文を読みまくってる合間にこうしてWebライティングをしてると、感覚がバグってくる。高い山を登って下りて───を何度も脳内で繰り返す作業が必要というか。
「これくらいの表現なら誰でもわかるでしょ」
みたいな感覚があまりにも乖離しすぎていて、もっとカンタンに、もっとカンタンに、でも矛盾なく、と考えることに使う脳リソースが半端じゃないわりに、それでも伝わらないことのほうが多い事実が、絶望にも似た感情をもたらすことがある。
- Webライティングができなくなる病
- 動画が作れなくなる病
- 音楽が作れなくなる病
- 絵が描けなくなる病
───かかってる人多そうだ。
自己完結と自己満足を極めることが、アウトプットを長続きさせる秘訣ではあるけど、ある程度は迎合してしまうのが人間の性とも言えるし、度し難いものです。