『メタモルフォーゼの縁側』という邦画を観た。
老婦人がBL(ボーイズラブ)にドハマリするとこから始まる物語。
なんとなく観始めたけど、思いのほか感じることが多かった。
御婦人ウッキウキ
まるで子どものように、キラキラの笑顔とワクワクな足取りでBL漫画を買いに行く御婦人が、ウッキウキ過ぎて、観てるこっちがニッコニコになるくらい元気づけられた。
僕はミドルエイジ入口だけど、いくつになっても、楽しいと思えること、前のめりになれること、新しさに挑戦する勇気と若さを持つことは、すばらしいと思った。
サードプレイス大切
BLにハマった御婦人と、そのきっかけになったとも言える芦田愛菜さん演じる女子高生が、BLという共通の話題によって少しずつ仲良くなっていく。最近よく聞く「サードプレイス」の大切さが表現されてると感じた。
御婦人は未亡人で、足腰も弱って、あとはお迎えを待つだけくらいの余生を過ごしていたところ、少女と出会う。
少女は、進路や未来が定まらなくて悶々とした日々を送り、人付き合いもうまくいかずにフラストレーションを抱える日々。
その二人が出会って共通の趣味を軸に、日常の話もするようになって、少しずつお互いのモノクロの人生に光が灯り始める。
生きる目的を持って、情熱とヒリヒリ感を持って前進をする二人。
趣味がなんであれ、年齢差がなんであれ、関係性がどうであれ、話が合う人、テンポが合う人、思いやりをお互いに持てる人の存在は人生に不可欠だと思う。
家庭でもない、学校でもない、仕事場でもない、自分の日常とは少し切り離された分野や場所での人との新しい繋がりは、人生に必ず新しい彩りと瑞々しさを与えてくれる。サードプレイスは、人生を豊かにする。
純愛ってどういうこと?
『メタモルフォーゼの縁側』を観て、思い出したことがある。
自身が中学・高校の頃、けっこうBL好きの女友達が多かった。
公言してる子もいたし、隠してるけどダダ漏れな子もいた。
ある日、
「BLの何がそんないいの?」
って尋ねたら、
「ピュアっピュアなんだよ!純愛!」
と興奮気味に返された。
当時は、妊娠とか性病とかそういうリスクが異性愛より少ないとか、一般的・常識的に認知されていない同性愛を「白い目」覚悟で貫くっていう理由で「ピュア」と表現してるんだろうな~と軽く流してた。
けどこの映画を観て改めて疑問がよぎった。
その理屈なら異性愛でも男性の無精子症や女性の不妊症なら純愛なのか?とか、格差恋愛や異なる人種同士の恋愛もある種の「怪訝な目」に晒される現実があるから純愛なのか?とか。
男から見た百合と、女から見た薔薇は、おそらく感覚が異なってて、その延長線上は決して交わることはない気がするから、「ピュア」の真意をたやすく想像できるものじゃないなと、しばらく考えた末にあきらめた。
元パートナーたちに申し訳なかった
ヲタクにもいろいろなタイプが居ていいと個人的には思ってるし、隠す必要はないと思ってる。
パートナーとお互いの趣味を楽しめば、人生が2倍楽しめるとさえ思ってる。
ただこの感覚がマイノリティであることに気づいたのは、25歳を超えたくらいから。
つまり、ヲタクであることを隠すことが普通で、自分が好きなものごとを大きな声で堂々と好きと言う人間は、特に日本人においては希少らしいことを、20代前半まで知らなかった。
当時のパートナーは、容姿端麗で頭もそこそこ良くて、モデルみたいな人だったから、「クールビューティーな振る舞い」をしたくてしてるんだと思って、僕も褒めてた。
だけどいま振り返れば、少女マンガが好きだったりエヴァのプラモデルを買ってたり、深夜アニメを観てたり、こっそり漫画を描いてた素振りもあった。
本当はそういう話で盛り上がったりしたかっただろうに、「綺麗で賢くて優しくてオシャレでセクシーな女性」をずっと演じてたのかもしれないと思うと、とても申し訳なかったなと思う。
ましてや、僕がそういうタイプを好きな人間だったらまだよかったのかもしれないけど、どちらかと言うと自作PC組んだりするヲタク性を有する人間だから。
なんならゲームや映画のことで考察し合ったりするほうが、これ見よがしにオシャレして腕組んで街を歩くよりもよっぽど楽しめたのに、もったいないことをした。
若い時の恋愛、背伸びして損するあるある。
芦田愛菜さんがすごい
芦田愛菜さんの演技がとにかくすごい。見事にヲタクを表現してる。
- 妄想で悶える
- 興奮で早口&声デカくなる
- クソデカ感情で声を殺すように泣く
吃る感じとか、親切が空回りそうになってる感じとか、どうやったらあんなに精密にヲタクじゃない人がヲタクを完コピできるんだろう。どれだけストイックに役作りに挑んでるんだろう。ひたすら感動した。
ギフテッド
ヲタクの中には発達障害の人も多いけど、発達障害の人の中にはギフテッド特性を併せ持つ人もいたり、そもそも発達障害が誤診のケースも少なくない。
同年代の人間と比較した時に、明らかに突出した能力があるのに、統計的視点が養われていないがゆえに過剰に謙遜したり自己卑下したり自己犠牲したりで、成功体験の機会を損失してしまうことが多い。とてももったいない。
この映画の少女もまさにそのギフテッド特性があるように思えた。
人に奉仕する
劇中、御婦人と一緒にイベントに遊びに行く約束をするけど、御婦人が腰を悪くしてしまい、そのイベントの混雑具合を予めリサーチした少女は、自分の受験勉強を優先するという“嘘”をついて御婦人を気遣い、イベントを諦めようとする描写がある。
人のために自分を犠牲にして、自分が悪者になることを厭わない姿勢はたしかに優しい。だけど言い方を変えれば、正直に腹を割って話すことをせずに、自分以外の人も関わることなのに勝手に判断したとも言えるから、利己的でもある。
この角度や方向性が少しズレた「気遣い」を、まだ未熟なギフテッドはしがちで後々に損をしやすくなるから、フィクションとは言えど観ていて胸が苦しくなった。
自分のことは無頓着
髪の毛がボサボサだったり着る服が適当だったり、思うことがあっても飲み込んで自分を抑圧したり、自分のことには無頓着な少女うらら。なのに周りの人の良いところを探して褒めたり、苦手な人のことをちゃんともっと知ろうとしたりする。
いいヤツすぎるんだよ。
めちゃくちゃ詳しいことがある
本屋さんでアルバイトをする少女うらら。
お客さんに本のことを聞かれた時、本の名前を答えたり、即座に売り場に案内したりする。
特に、自分がはまっているジャンルの本に関しては、知っている範囲が広すぎて深すぎて、おすすめする場合にはアレもコレもとなってしまう。
専門家も顔負けなくらいある分野に関して詳しいところが、The ギフテッド。
気遣いが一歩及ばない初々しさがいい
人のため、人のため、人のため……そう思ってなにかしようと気遣いを頑張るんだけど、あまりに焦燥感や強迫感からなもんだから、表面的になってしまう。結果的にその気遣いが裏目に出てしまうこともあるけど、このギフテッド特性の初々しさがよき未来の可能性を示唆していた。
オーバーラップがいい
少女が漫画を描いてる時と、BL漫画の作者が産みの苦しみにもがいてる時。
少女と老婦人、お互いがお互いを気遣いすぎて素直に自分の欲望を出せない時。
幼なじみの恋を見守る時。
ぜんぶがBL漫画の登場人物の心境とオーバーラップしてる描写が、ベタなんだけど安心してクライマックス感を味わえて、いい。
お披露目はおまけ
芸術やスポーツなど、何かを人に披露する時、初めは恥ずかしがるのが普通だとは思う。でも、芸術にせよスポーツにせよ、人に披露する前提でも完全な自慰であるべき。
性の話にしたって、自分以外の自慰を見て恥ずかしくなったり興奮したりする動物は人間くらいらしい。
大きい視点で見れば、人間社会の全ては自慰で成り立ってるとも言える。
- 人のため
- 家族のため
- 平和のため
これらの動機はただの責任転嫁。
「自分がしたいから」という究極の内発的動機がなければ人間はどこかで燃え尽きて、自分がやってることに感じる価値とリソースのバランスが取れなくなっていく。
そうすると、最初は善意だったはずが押しつけがましくなる。言い訳に使うようになる。
サステナブルかつ価値の最大化を考えた時、人に披露するものはなんでも自慰的に行うのが最適解。
こういう発信も同じというか、人生すべて共通して言えること。
「お披露目はおまけのお裾分け」くらいに自己完結したアウトプットだけが全員幸せになる道。
プロセスエコノミーは夢実現への最適解
劇中、少女は「楽しかった」と、創作のプロセスを満足できた発言をする。
このプロセスをマネタイズするのがプロセスエコノミー。
人は人の感情に同調する、スタイルシンクロ現象というものがあり、
- プロセスを共有し、
- プロセスに共感し、
- プロセスに熱狂する
たとえば、
- 水曜どうでしょう
- 黄金伝説
- 24時間テレビのドキュメンタリードラマ
- インディーズバンド
- 映画やドラマのメイキングやNG
これらはすべて「プロセスの価値」を商品化してる。
つまり、人の感情が動くところがマネタイズポイント。
これさえわかれば、どんな同人活動でも人を喜ばせられるようになる。
つまりメシが食えるようになる。
つまり一生好きなことが続けられる。
この入口に、少女うららと老婦人が立ってることを思うと、胸が熱くなった。
けど、この『メタモルフォーゼの縁側』をメタ視点で見た時、映画自体は漫画が原作で、その制作風景や裏話が、全然うまくマネタイズされてないのが皮肉だとも思った。
だから、最後に漫画のリンクを置いて微力ながら貢献しようと思う。