映画を観て、記憶に関して色々と考察して、自分の指針を再確認したという雑記。
先日、YouTubeのトップ画面に、NetflixチャンネルのPR動画が載ってた。
「ジョー・ブラックをよろしく」という映画のPR。
1998年に公開されたブラッド・ピット主演映画。
なぜに今・・・?
そう思ったけど観たことはなかったから、Netflixで観てみた。
かいつまんであらすじを説明すると、ブラッド・ピットが「死神の役」で、その死神が大会社の社長の命を取りに来る。
でも人間の世界が物珍しくて、色々散策したり人に会ったりしたいから、しばらく社長の命を取るのは先延ばしにして、社長の日常に同行し、ひと波乱起こす・・・という話。
これだけ聞くと、コメディなのかホラーなのかわからないだろうけど、立派なヒューマンドラマであり、ラブストーリーでもある。
1998年公開というと、僕は幼い少年だったから、恐らく観てたとしても意味もわからず退屈になって、開始10分で寝てたと思う。
初鑑賞が、公開から20年以上経った今で良かったなと思った。
劇中に、印象的なセリフがあった。
めちゃくちゃ胸にぶっ刺さって考えさせられた。
死神が、とある男に「愛」について質問した後、男が答えるシーン。
She knows the worst things about me, it’s okay.
(中略)
It’s like you know each other’s secrets, your deepest, darkest secrets.
And then you’re free.欠点を全て許してくれる。
互いの秘密に通じてる、胸の一番奥の暗い秘密にさえ。
秘密のない自由だ。
───これですよ。
ガツンときた。
秘密のない自由って、普通一般的に捉えると、隠し事なしで素直で居られること・・・程度の意味じゃないかな。
でもここで、僕の脳が要らぬことを結びつけ始めるわけです。
可能性と記憶について。
記憶が秘密を生む
アスペイズムでもどこそこで書いてあるけど、愛の定義を掘り下げていくと「可能性」に行き着く。
可能性を開拓すること=愛すること、だと定義してる。
5年以上は日常でフィールドワークしつつ自問自答してるけど、今のところ、この定義は覆らない。
「秘密のない自由」という言葉は、甘美で恍惚な響きだった。
でも、可能性の開拓=愛、この定義に当てはめると、例外もあるなと気付く。
秘密がある前提で、秘密を許容して、受容して、共有するわけやん。
問題なのは、秘密=過去の未知ってこと。
秘密と一口に言っても色んな秘密がある。
身体的な秘密
精神的な秘密
昔の秘密
家庭の秘密
仕事の秘密
経済的な秘密
人間関係の秘密
夢や目標
などなど。
抱えてる秘密は人それぞれ。
秘密は、言い換えれば全て、相手が知らない自分。
過去=秘密とも言える。
口に出さない夢や目標でさえ、過去の自分が積み重ねてきた記憶をもとに設定してるわけやん。
たとえば、今日眠って、明日起きた時に記憶がなくなってたら、秘密がない。
記憶が秘密を生む、これに気付いた。
客観的には、いくらか相手を知っている前提で、それ以上に知りたいことを知らせてもらえない場合、それを秘密と呼ぶ。
めっちゃカンタンな例を挙げると、出会ってすぐの人間が隠し事をしてても気付かないし、気付いてもそこまで気にならないけど、めちゃくちゃ親しい人が何かを言いかけてやめた時に、めちゃくちゃ気になるやん。
親しければ親しいほど、「新しい未知」が秘密になる。
相手についての記憶がたくさん積み重なってるから。
記憶が紡ぐ人間らしさ
「自分が一番この人を理解している」というエゴ。
純粋に知りたいという知的好奇心。
親しい自分ですら知らないこの人の秘密を、もし他の誰かが知ってたら───という嫉妬。
秘密にされる=信頼されてない、という思い込みによる悲しさや寂しさ。
人間らしさとも言えるこれらも、記憶から生じてるでしょ。
秘密にされ続けるほど、膨れ上がる。
ここまでは、人間の自然な感情かなと思うから全然いいねん。
問題は、秘密を処理できるか。受け入れられるか。理解できるか。
記憶を保存・処理する力 ブレインキャパシティ
過去の何を秘密にしたいかっていう、個々の意志決定は置いといて、受け取った側の処理が問題になるわけやねん。
よく聞く話として、
「秘密を打ち明けられたけど受け止めきれない」
みたいなやつ。
受け止めきれないから、秘密なのに別の誰かに相談してしまって、それがまたトラブルに発展したりするエピソードはよく聞く。
これがなぜ起こるかと言うと、記憶能力や感受性に個体差があるから。
もっと言うと、記憶と感受性の量・質と、秘密のそれらは、比例するから。
情報の処理力、一時的な処理量、一時的な保存容量、長期的な保存容量、読み込み速度、etc。
これらの掛け算で、相手の秘密を受け入れられるかが決まる。
総合的に、ブレインキャパシティとでも言おう。
さて、ここらへんでやっとアスペイズムらしい展開にしていく。
記憶や感情に関するギフテッド特性があった場合、つまりブレインキャパシティが多いと、当然、秘密の量も膨大になる。
自身、隠してるつもりがなくても、あまりにも抱える記憶や過去、その他の情報量が膨大すぎて、その片鱗に触れた人にとっては秘密だらけの人間に見える。
記憶の共有=秘密なき自由の果てなさ
「秘密主義なんだね」
「ミステリアス」
「言ってくれればよかったのに」
「何考えてるかわからんわ」
「考え過ぎだよ」
「そんなこと誰もおぼえてないよ」
などなど、老若男女からこれまで散々言われた経験がある。
一般論としてはわかる。
いつも自己開示をしないから、そう言われてもごもっともだと思う。
だけど、こちとら最初から赤裸々であることを諦めたわけじゃない。
数え切れないくらい、理解されずに辛酸を舐めた過去があるから、チューチョなく自己開示をすることができない。
秘密にしている悩みや不安、恥、本音、理屈、感情を、最初は包み隠さずに人に伝えようとした。
時に相手にうざがられ、時に相手をキレさせ、悩ませ、傷つけた。
なぜなら、僕にとってはささいな秘密の量・質・濃度にすら、耐えきれるブレインキャパシティを持つ人が居なかったから。
過去に出会った賢そうな人達・・・教師や医師や検事や議員。
友人、仕事仲間、恋人、家族は言わずもがな。
自己開示を望んでもらえるのはいいけど、晒した結果、相手は受け止められず、メンタルを潰してしまう。
信頼してないわけじゃないし、なんなら秘密を打ち明けてほしいという気持ちは親しい証だから感謝もする。
だから、相手との関係性を深める「可能性の開拓」のために、自己開示をするけど、結果は逆になってしまう。
仮に一時的に受容・許容されたとしても、今度は、長年共有し続けられないという忘却の壁。
一方で、愛する人たちの秘密を、僕はいくらでも受け止められる。造作もない。忘れない。
だからこそ、いつしか、僕は相手に打ち明ける思考や感情を0.01%程度に留める努力を覚えた。
人の心を壊さないために、潰さないために、誰になんと言われようと、誰が離れていこうと、自己開示をしないことを徹底するようになった。
人を愛してるから、人の可能性を開拓したいから、脳内が自分と人の秘密だらけになる。
「秘密なき自由」を得る難易度は、ブレインキャパシティと正比例している。
つまり、秘密なき自由を愛とするなら、自分が愛を得るのはムリゲーだなと。
ただ、秘密なき自由は相対的で、限定的で、条件付きで、愛というよりいわば損得勘定や利害の一致なんだよね。
記憶に依らない肯定=無条件の愛
可能性の開拓=愛、と何度も繰り返してる。
自己開示をして、記憶=秘密を共有して、秘密をなくして自由になれたら、それは確かに心地いいんだろう。
でもブレインキャパシティに依存してたら、人をぶっ壊したりして、可能性が少なくなる時も往々にしてあるということ。
相手が幸せになるかぶっ壊われるか、自己開示を試してみないと結果がわからないようなギャンブル要素があるなら、愛じゃない。
再現性がなくて個体差がある手段は、全て相対的。
条件付きの愛、この言葉そのものが矛盾してる。
可能性が狭まる場合もあるなら、愛じゃない。
なら、秘密があろうがなかろうが自由を感じれた方が、愛じゃないかな。
秘密にしてても、全てを肯定できる、そのほうが可能性が開拓される。
僕は、攻撃されない限り、敵意や悪意を向けられない限り、誰に対しても存在を肯定・称賛する。
もちろんこれを読んでるあなたのことも、その存在が宇宙唯一でとんでもない価値があるんだと、拍手喝采しながらリアルに泣きそうなほど感動する。
あなたが1秒を生きる価値は、全宇宙の財宝に勝ると、何度でもこの事実を伝えたくなる。
自分自身に対しても、その感覚は同じで。
何も条件なんてなくて。
秘密があろうがなかろうが、相手と何を共有していようがいまいが、関係ない。
映画を観て、改めて、自分がかつて辿り着いた哲学の方向性が、未だ暫定的にベストだと再認識した。
自己弁論を突き詰めた先に、人類共通、万能の答えがあるってんだから、皮肉だし、おもしろいね。
「ジョー・ブラックをよろしく」、いい映画だった。
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