論理や理屈が大切な理由は「こんなはずじゃなかった」という最悪の悲劇を防ぐため

心の道しるべ

「正しい人生より楽しい人生を」

という言葉を何度か聞いたことがある。

言い換えるなら、論理より感情を優先せよ……かな。

結論から先に言うと、前にも書いたけど、

もし人の命が綿毛ほど軽んじられるような世界だったら、みんな楽しく生きられますか?

に尽きる。

楽しさを優先する、感情で生きるということは、何を楽しいと思うかによっては大惨事になるってこと。

楽しさだけじゃなく、好き嫌いでも同じ。

世の中には、人が苦しむことをなんとも思わない人がたくさん居る。

それどころか、痛み嘆き泣き叫ぶ姿を快楽だと思う人も少なくない。

その様子を見て、興奮し、激化を期待する人も居る。少なくない。

なぜそんな人が出来上がるのか。

生まれながらのサイコパスなんてのは非常に稀で、過去に世界で起こった猟奇的殺人事件の犯人の生い立ちや背景を遡っても、そこにはほぼ必ず家族や家庭での歪な教育環境がある。

いや、教育とは名ばかりで、その実態は親の価値観のズレによる子への日常的な虐待、人権侵害行為。

そんな環境に何年も何年も晒されながら育った人間は当然、健全な価値観なはずもなく、他者の存在に価値など感じない人間になるのはわかりきったこと。

僕はこれを「抑圧は後の爆発」と呼んでる。

犯罪というのはほぼ全てがこのカラクリによって起こる。

・愛情の欠乏による自尊心の剥奪、人格形成ミス

・教養の欠乏による悩みや問題を解決できないフラストレーション

2つの最悪が重なった時に、人間の心は攻撃性を持つ。

自殺も殺人も、自傷も他害も、どちらも「ヒトを殺す・傷付ける」という意味で同じこと。

日常的な、人への暴言や愚痴やいじめや諸犯罪の全てに通じる。

そして、その犯罪を起こしかねない人間が生じた事実そのもの、つまり過去を変えることはできない。

だから、犯罪を抑止するために法律があり、司法があり、警察が居る。

でも、何度も言うように、抑止や抑圧そのものが問題を解決するわけじゃない。

なぜ悪いことをしてはいけないのか。

なぜ己を含むヒトを殺してはいけないのか。

善悪とは何か。

そういう疑問のプロセスをすっ飛ばして、とりあえずダメなことを一覧にしたよ、だからやめようね、やったら罰ね、という論理の集約が法律なわけだ。

ただ「悪人を生む」という問題を根本的に解決するには、「価値とは何か」を論理的に理解させる教育が最も重要で、それこそが知的生命体だからこそ可能な、建設的で生産的な唯一の種の存続方法でもある。

競争に勝つための教育や、奴隷を育成する教育など本来はどうでもいいこと。

じゃあ、解決ではなく対処でしかない法律は不要なのか。

法律がないとどうなる?

人を傷つける事を至上の快楽とする人たちが、論理を完全に失ったらどうなる??

戦争が始まったらどうなる?

楽しいことなんてできない。

好き嫌いなんて言ってられない。

みんな自由がいいからと言って無法地帯にすると、犯罪だらけになる。

「こんなはずじゃなかった」

って思ったって後の祭りなんだよ。

論理、正しさというのは、一人も漏れなく全員の自由と幸せの権利を守るためのルールや秩序を保つ、よりよくする思想の裏付けを言う。

端的に言えば、感情のために論理がある。

命を守るために論理がある。

たくさん幸せを感じるために論理がある。

───とは言え、抽象的なことを明文化したとて、見ようとしてもなかなか見えないものが論理だと思う。

だけど、目には見えないけれども確かに存在すること・ものが、実は最も重要。

だから、学ぶ。

例えば、人の意識、心、記憶はもちろんのこと、人体の健康を大きく左右してるのは「共生菌」で、共生菌が体内外から居なくなると人は死ぬということも、目には見えないけど真実で、非常に重要なこと。

日本では食料としていろんな生き物を大量に屠殺してるけど、年間約600万トンもの食べられる食料(約2400万人分)がゴミになってる事実と、それを捨てるために税金が使われ、埋め立て地を増やすために土地を使い、人間の労働力も必要って実態とか。

そういったものを、見よう、気付こうとする意志そのものが、全部愛情だし、論理でもある。

見えなくても、見ようとする。

それが、自分への愛、他者への愛、その対象への愛、全てへの愛情になる。

苦しみから逃れたい、元気になりたい、幸せになりたい、真実が知りたい、矛盾を無くしたい、そういう本能的なとても強い感情からの悲願を抱くほど、論理は味方になり、愛情になり、最善の手段となる。

楽しさを守り続けるための、正しさなんです。

またでbye。

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Posted by tkhtzzz