やりたくないことをやり続ける方法→「1点=100点」と考える
このブログでは事あるごとに、
「内発的動機以外は非効率で非合理」
って主張してる。
それでも、どうしても0か100かで割り切れないのが人間って生き物ってこともよくわかるし、避けたくてもうまく避けられない現実があったりもするってわかるから、そういう時のために、やりたくないことをなるべくストレスなく、うまくこなしてくためのコツみたいなもんを書こうと思う。
やる気スイッチなどない!!!
ドアタマからド直球ですけどもねー、やる気スイッチなんて存在しないんですよねー。
内発的な動機なら、それはやる気スイッチじゃなくて「やりたいスイッチ」やから、人間はどこまでも、やりたくないことはやりたくないままなのは真理なわけで。
もちろん、やりたいスイッチを押すのが一番賢い方法やし、他人のそれをONにすることが「優秀な教育・育成」であり、それができる人が「賢者」なのは言うまでもなく。
なかなかそんな人間は、どこ探してもおらんよね、ほんま。
ただここでは、やりたくないことをこなす方法やから、この話は割愛。
やめられないとまらない→人間の習性を利用する
かっぱえびせん食べたいなぁ。
と僕の渇望はさておき、おもしろいのは、人間って、やりたくなくても、一度始めると、簡単には今やってることをやめられなくなるって習性があってね。
それがやりたいことでもやりたくないことでも一緒ってのがおもしろい。
例えば、普段は全然掃除なんてしない人が、一度やり始めるとトコトンまでやっちゃって、なんなら気付けば1日がかりでしたなんてケースもよく耳にする。
その掃除の内容も、目に見えるところのみならず、引き出しや廊下の隅の方や角、フローリングの目地なんかも爪楊枝まで持ち出してほじくり返したりさ。
他の例で言えば、宿題を夏休みの終わりまで放置しとくけど、いざ登校日の3日前になったら、
「え、お前そんな寝ずに長時間集中できるんやったら、普段からちょっとずつやれば良かったやん……」
みたいなケースね。
これらに共通してるのは、前述したとおり、
やりたくないけど、やり始めたらやり終わるまで止められない、やめない
なんですねー。うーん不思議。
とにかく人間はこういう習性があるから、これを活かそうって話でね。
小さなゴールを作る
「馬の前にニンジンをぶら下げて走らせる」なんて表現を聞いたことある人も居ると思うけど、まさしく、
自分で自分の前にニンジンをぶら下げる
ってのが重要になってくるねんな。
そのニンジンをご褒美やゴールとして、とりあえず自分を走らせる。
すると、不思議なことに、やってる時って意外にニンジンのこと忘れてたりするねん。
しかも、忘れるだけじゃなくて、ニンジンを先延ばしにしたり、なんならニンジン無くても走り続けたりする。
たとえば、掃除なら、
「フローリングに掃除機をかけたら、コーヒータイム・おやつタイム・映画タイム・読書タイムetc」
とか、自分の好きなことをしたり好きな物を飲食したり、走り出すためのご褒美を用意する。もしくは、
「机の上をチャッチャと拭く」
みたいな、1分もかからずできそうな簡単なことをゴールに設定する。
そうするとあら不思議。
フローリングに掃除機をかけたら、次は拭き掃除もしたくなってくるし、机の上を拭いたらシンクの周辺の手垢も気になりだして、ご褒美やゴールそっちのけで続行しちゃう!!
いやーーー人間って単純でバカで愛しい生き物やなぁと思うわ。自分のことも含めて。
人生にも活かせる
ここ最近のエントリーでもしばしば「人間は人間のハードルをなくすのが最適解」って言い続けてるわけやねんけど、これは当然、他人に対してだけじゃなくて、己に対しても全く同じことが当てはまる。
”人間”やから、そこに自分とか他人って区別はないもんね。
つまり、さっきの掃除とか宿題をやり始めて続ける方法は、
・完璧じゃなくて良い
・中途半端でも良い
・何も進まないよりは1mmでも進めばもう満点
っていう、限りなくハードルを下げるってことを意識してるわけやねん。
正解や完璧を意識しすぎるあまり、結局は何も全然進まなくて、でも進まないことをダメやと思ってるからずっと気になって、できない自分を卑下する……みたいな悪循環に陥ってしまうねんな。
でもさ、それってよく考えてみて。
僕みたいな内発的動機以外の動機では何もやらないっていう考え方を極論やって言う人はたくさん居ると思うねんけど、結局は先の悪循環ってさ、発端は極端な考え方から生じてるわけやん??
しかも、その極端な考えに自分の感情がついていかずに、自分を責めたりずっとモヤモヤしてるって、極端な上に中途半端で、全然メリットないやん(笑)
0より1、1は100
やるか、やらないか。
有るか、無いか。
居るか、居ないか。
要るか、要らないか。
欲しいか、欲しくないか。
人生って、本当はめちゃくちゃシンプルで、簡単で、何も複雑なことがないねんな。
でも、なまじ僕ら人間って脳が中途半端に発達してるから、余計なこと考えて立ち往生することが多すぎるやん。
もとを正せば、人間には何か欲があって、それを満たすために目的を設定して、その目的を達成するためのルート(手段)を考えて実行する……たったこれだけのことを無限に延々と繰り返してるのが、人生とか生きるって大層なもんの正体やねん。
それで、経験則で申し訳ないけど、めちゃくちゃ多くの人が、というかほとんどの人が、そんな単純な繰り返しに気付いてない気がする。
自分は何がしたいのか。それはなぜなのか。なんのためなのか。
何が欲しいのか。なぜ欲しいのか。なんのためなのか。
これらが明確になってない人が本当に多くて、そりゃ根本的な自己理解すらできてないんやから、そんな状態で毎日を生きててもそりゃ迷うことだらけで、困ることだらけで、大変やろうなって思うねん。
しかも、人に対して期待したり、明確になってない「普通はこうでしょ」みたいな曖昧なモノサシで人と関わるから、柔軟な捉え方もできなくて、刷り込まれたモノサシで現実に生きる人達の人間性や心を測ってしまって、その「理想や期待」とも言えるモノサシとの大きな相違に矛盾を感じて、矛盾を受け入れられなくて、理解もできないから混乱して、感情が振り回されて、取り乱したり凹んだりする。
それもこれも自尊心のなさから来る、モノサシとの差異への執着と、自意識過剰・自己顕示やねんけどさ。
心理的・肉体的ハードルを撤廃せよ!それは越えたい人だけが越えたくて越えるものだ
「常識・平均・期待・理想」なんてハードルはどんどん捨ててなくした方が幸せになるねん。
同じ人間ってだけで、全員が別々の意識や心を持ってて、誰一人として比較できないし、寸分違わず同じ人っておらんねんから。
顔面殴られても平気な人も居れば、手の甲にデコピンされただけで泣く人もおるわけやん。
それは心も一緒で、感じ方なんて本当に全員違うわけやから、自分の感覚やモノサシを適応できる(してもいい)のは自分ひとり限定って事実をちゃんと理解したほうが、自分の周りも自由になれるし幸せになれるねん。
自分にさえあまりモノサシなんぞ適応するべきじゃないねんけどな。
そうしてハードルをどんどん下げていけば、そこまで責任感とか使命感とか焦燥感を感じなくても、軽い気持ちでいろんな事に挑戦できるし、ハードルさえなければダメ元やから失敗しても凹まないし、社会的にもその基盤が出来上がってたら誰も責めないし、いいことだらけやん??
ハードルを越える時ってのは、そのハードルを越える事自体を目的にした内発的動機の時だけやねん。
ハードル(常識・平均・期待・苦労)がもたらす悲劇
少し話は逸れるけど、最近は、職人さんの世界で跡継ぎが居ないことがとても問題になってて、これまでは「人材不足は致命的な問題になってくるやろうな~」くらいの認識やったけど、どうやらその影響は顕著に現実に起こってるみたいで。
被災地で、大工さんの数が少なすぎてどうしようもなくて、復興が頓挫してるって話。
なんか、それ聞いて衝撃受けたもんね。
こんなにリアルに、人材不足で人々の暮らしにダイレクトに影響出てるんやって感じたの、初めてじゃないかな。
でね、それはもちろん少子高齢化ってのが原因の1つなのは言わずもがななんだけど、それ以上に、伝統と文化ってもんを重んじるあまり、間口を狭くしすぎて、敷居を高くしすぎて、ハードルをどんどん上げてしまったことも大きな要因やねんな。
僕自身、職人的な別の業界に数年居たことがあって、
「できないと鉄拳制裁」
みたいなやり方が、ほん十数年前までは横行してた世界やったらしくて。
よく言うやん?
「技術は見て盗め」とか「下積み10年」とかさ。
こんなに目まぐるしく変化してく時代に、こんなに日進月歩で発展してく国で、もうさすがにそのやり方は効率としても最悪でしょ……って誰しも思うはずなんやけど、職人の世界ってやっぱり閉鎖的やったりするから、風通しがめっちゃ悪くて、なかなか時代に順応でけへんみたいやんな。
社会全体にも言えることかもしれんけどさ、特に師匠と弟子みたいな関係がある職人世界ではなおのこと根強く残ってるやん。
で、宮大工の技術とかはほんまに天才的やなって思うし、人間の感覚を最大限まで研ぎ澄ました結果の為せる技やなって思うけど、もし全く同じことを機械でできるようになったら、そりゃ機械にやらせたほうがいいやんって思うねんな。
機械化ってのは、人間が便利に、ラクに生きられるようにって目的が根本やねんから。
現代人は、いろんなことがラクにできるようになったにも関わらず、それで増えた余暇時間をまた労働に充てるっていうワケわからんことをしてるわけやけども……。
働きたいから働いてるのかと思いきや、別段、仕事できるわけでもないのに威張ってる人とか、実際に職場改革を実行するわけじゃないのに、組織のやり方に不満を呈してばっかの人とかさ。
金のためってのはもっとひどいわ。
大体が、どれだけ能力高くても低くてもそこに居るだけで大差ない賃金をもらえるようになってるから、暇つぶしにいじめを楽しむ人間も出てくるやん。
んーー、たとえ仕事で結果を残せる人でも、威圧的な態度しか取れないのは人間としてあんまり賢いとは言われへんけどさ。
というより、機械化だけじゃなくて、ぽっと出の新人の何気ない一言が、数百年の歴史ある手法よりも効率が良かったりするかもしれへんし、もしそうなら柔軟に受け入れて変えてくのも、長い目で見たらその伝統と文化を守ることに繋がるし、そういう姿勢にいきなり変化するのが難しいからこそ、日頃から合理的な考え方を意識するって大切やねん。
精神論や根性論と抱き合わせでよく使われる言葉として、プライド・意地・誇りってのがあるけど、そんなもん、人類の存続の足を引っ張るくらいなら全部が邪魔でデメリットで悪の権化で災厄でしかないから、それこそ掃除したゴミと一緒に捨てちゃって良い価値観やわして。
まとめ
どう考えたって、原点回帰するけど、何事においてもハードルを上げるってのは人間の心理的負担を増やして、心理的負担が増えると同じことをしてても疲労度が高くなって、しんどくて続かなくて最終的にはみんなやめてしまって、新しい人も寄り付かなくなって後継者も居なくなって、破滅・崩壊……ってのは自明の理やねん。
これは、そういう伝統とか以外でも、歴史があること全てに言えることで。
最近はゲーム業界やゲーマー界隈にも同じことが起こってるなぁって感じるねんな。
新参と古参の関係ね。
ニワカが入ってきて、下手なプレイに古株がやきもきして、イライラして、追い出してしまって、メーカーからしたらプレーヤーが減って、売れなくなって、サービスを持続できなくなって終了しちゃう、ってケースが本当に増えてるなって思う。
これって全く一緒の構図やねん。
だからやっぱり何度も言うけど、どんなことでもハードルを下げるってのは、長い目で見た時には文化貢献になるし、人材育成に繋がるし、それが人間を守ることや幸せに直接繋がってく。
んで、肝心のハードルをどうやって下げるかって言うと、
自分がまずムリしない
ってのが大大大前提。
根性論とか精神論じゃなくて、やりたくないことはやらなくていいし、面倒なことはどうにかしてラクに終わらせる(負担が少なく同じ結果を出せる)方法を考えてけばいいねん。
でも、どうしてもやりたくなくてもやらなきゃいけない時だけ、それが「本当に100%自分がやる必要があるのか」ってのを明確にした上で、自分の前にニンジンをぶら下げたら、途中から「やめられない止まらない」が発動するから、ぜひ試してみてね。
ということが言いたかった。(ムリヤリまとめたな)
またでbye。