バスの運転手さんが車椅子の方の搭乗を拒否した問題は社会全体の一人ひとりに責任がある

雑記

例の如くツイッターをスルスル見てると、バスの運転手さんが発車5分前に車椅子の方の搭乗を拒否したことがニュースになっていた。

これに対しては賛否両論あるのはもちろんなんだけど、どの意見も「他人事」やねんなー。

当事者の中で誰が悪いとか悪くないとか、会社の規則がとか、どこか蚊帳の外から目線に感じるし、実際、第三者としてぼやいてるだけの感覚の人が多いんだろうなと感じた。

だけど、この問題に限らず、この世で起こってることは全て、生きてる一人ひとりに関係してることやん。

一人ひとりの問題やん。

特に日本で起こってることなら、当然日本人全員に深く関わることやし、人間に起こる問題は人間全員に関係してるし、どうしてそんなに他人行儀というか我関せずのスタンスを取れるんやろう。

人類のゴールは強いて言うなれば種の存続で、繁栄すらそれの手段でしかないわけなんだけど、要は存続以外には明確なゴールなんてないんよ。人間にとって。

それはこのブログで何度も何度も口酸っぱく言ってることやから、頻繁に訪問してくれてる人は理解できてると思うけど、なんで命に関わらないような問題で、命を蔑ろにするのかがサッパリわからん。

過労死にせよ自殺にせよ殺人にせよ虐待にせよ、その他の全ての「攻撃」は、全て、誰の命にも関わらないようなことに対するネガティブな感情から生まれてる。

あまり脱線すると収集つかないから戻すけど、今回のこのニュースは、明確な理由や目的もなく自分や他人に厳しくあろうとするこの社会が生んだ問題やねん。

運転手さんは、きっと、自己判断でバスを遅らせてでも、車椅子の方を搭乗させたい気持ちはあったはずやねん。

でもそれをすると、後から絶対に非難を浴びるし、会社からもごちゃごちゃ言われるやん。

集中砲火やん。

困ってる人助けようとして、なんでそんな口撃受けなあかんねん。

人に迷惑とか、遅延損害とか言うけど、じゃあ君らはなんのために生きてんねん。

金があっても健康があっても幸せじゃない人は幸せじゃないし、他者を蹴落としてまで仕事に誇りを持っていて、人の命や幸せのために仕事をしてそれを喜びやと感じてる人間が、果たしてどれだけ居るのか。

逆に本当にそういうスタンスで仕事をしてる人なら、人の幸せがmy pleasureなわけやねんから、日常の中で起こるこういうハプニングにだってもっと大らかに、包み込めるような余裕と優しさがあって然るべきやん。

結局は、自分で自分の機嫌を取れないような、赤ちゃん未満な大人達が、他人に責任転嫁して自尊心を保ちたいだけなんやって。

生きてる中で何があったって迷惑やと思わん人も居るし、怒らん人も居るんやから。

だって、車椅子の人が搭乗するためにバスが遅れても、全然なんとも思わん人も居るんやもん。

どれだけ忙しくても、どれだけ時間がなくても、ただただみんなが同じように同じことをするために助け合うのは至極当然のことなんやから、それで怒る人とか迷惑やと考えてる人は、それはもうその人自身の心の問題1つなんやって。

生き急いで、正しさが何かもわからず、幸せが何かもわからず、生きてる理由すら明確に掴めず、そんな人達がたくさん居るこのカオスな社会全体が、「善の行動」や「幸せ」を抑圧して不幸や不平等を増やしてるんやって。

そしてその社会に生きる僕ら全員が、全ての社会問題に対して、それらが自分自身に直接関係してることやって認識することが、自分を含めた一人ひとりの深い幸せに確かに繋がっていくんやって。

相対的な目より絶対的な目を持とうよ、ほんと。

自己肯定感の欠如による差異への執着だけが、不幸や苦悩やネガティブの根本原因やって、気付こうよ。

それが経済的な理由であれ、病気や障害から来るものであれ、人間関係から来るものであれ、突き詰めれば全ての苦悩の根本原因は、個体の自己肯定感の欠如なのは100%間違いないんやから。

それを理解して初めて、「どう生きるか」とか「幸せとはなんぞや」ってテーマのスタートラインに立つんやって。

スタートラインにすら立たんまま生涯を終える人の方が圧倒的多数やけど、ほんまにそれでいいんかよ、あなたは。

余談として、僕が半身不随の元恋人と居た時、公共交通機関に間に合わなかった場合は、そりゃ他の健常者と一緒で、搭乗に必要な時間を逆算して余裕を持って行動できなかった自分らに責任がある、と考えてた。

だけど、社会の目指す先としては、もっともっと人が互いにただ生きることに協力的・寛容的・感動的にならないとなぁって、自分も含め、思った。

スポンサーリンク

Posted by tkhtzzz